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やりたいこと、行きたいところ、話したい人、書きたいことが多すぎて。
by Kinotomii
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小澤征爾のサイン


初めて生でクラシックを聴いたのは、50年前の1970年(20歳)頃の事。
確か奈良文化会館で、小澤征爾指揮だった。曲目は忘れてしまったが、ポピュラーな曲だった。その軽いタッチのオタマジャクシが客席中を駆け回っているかのような音に魅入られたが、その後、小澤を聴く機会はなかった。
生活に追われ、若い身では経済的にも無理だったし、第一、世界の小澤となった小澤氏は、日本のあちこちで演奏されることはあまりなかった。

それから18年後(38歳の時)、奈良発京都行の近鉄電車の中で、前の座席に座っている人の一種異様な雰囲気に呑まれた。髪はボサボサ。大きな顔に鋭い目を光らせ、背をもたれかけて足を大きく広げて、疲れ切った様子に見えた。
「どこかで見たことのある人…」
しかし、にわかに思い出せない。チラチラと目をやりながら必死で頭を巡らせた。
近くには、白人が3、4人、楽器ケースを床にもたれさせて固まって立っていた。
そして、まさか、まさかの

オザワセイジ

顔に動揺が出ないようにしながら、隣の友人に、
「ね、前の人、じっと見たらあかんよ。あの人、オザワセイジと違う?」
その時点で、素知らぬ顔で窓の外など眺めながら、私は胸が高鳴っていた。
不思議な事に、周囲の乗客は、何の反応も見せない。

どうしよう、どうしよう、何とかせんと…。サインでも貰わんと…。
何もせず、素知らぬ顔でいてあげるのが一番の礼儀だろうに、
もうこんなチャンスはない。サインを貰うのはダメだろうか…。私は焦った。
顔は前を向いたまま、手だけでバッグの中をさぐってみても、こんな時に限ってノートもボールペンもない。

隣の彼女にも、「色紙持ってない?」「いつもバッグに入れとなあかんのに」と彼女にブツブツ言いながら、
仕方ない。これで…。
手帳付属の小さな鉛筆が見つかったので、ボランティア帰りでたまたま持っていたドイツ語辞書の裏表紙に
「ファンです。サインをお願いします」
これだけを言うのに、又3分くらいを要し、
そして書いて頂いたのが下のサインです。

小澤征爾のサイン_c0356158_14415040.jpg
小澤氏は快くサインして下さり、今に至るまで宝物として身近において来ました。
一行は西大寺で下車し、特急に乗り換えて京都に向かわれました。

こんな思い出のある小澤征爾氏の音楽は、先月お亡くなりになるまで、レコード、CD,テレビなどで鑑賞させて頂き、その人の作る音が好きなのは勿論、最後まで音楽家としての気力を失わない生き方。精力的でいて率直、世界最高のマエストロなのに親しみを感じさせる人となりに、本当に豊かな感慨と至福の時間を頂きました。

感謝。合掌


# by Kinotomii | 2024-03-25 15:43 | 音楽 | Comments(0)

リターン・オブ・広上純一 !

2024年3月16日、
久しぶりに広上氏の指揮を聴きました。
京響が良くなったと感じたのは、もう6~7年前の広上氏が常任指揮者であった時からです。
このたびは顎髭を蓄えられていたが…、指揮ぶりはやはり満足でした。
現在は金沢に活動の場を移しておられるようで、大地震の寄付を募ることも忘れない。氏のお人柄もあって、我も我もと紙幣が集まっていました。

今回は、疲れが取れるのではなくて、なんだか疲れた。
ピアノも交響曲も、変化が激しくてややこしかった。
最近はメロデーよりも楽器の行方を追うことが習慣化してしまったようだ。とにかく、目まぐるしく音が変化するので、それをとらえるだけでも疲れた。
でも、今回感じたのは、プロというのは、目まぐるしくてややこしい曲ほど挑戦意欲が湧くのだろうか、ということ。
聴衆は、ただゆっくりと音の面白さを楽しめばよいのでしょう。

# by Kinotomii | 2024-03-25 15:38 | 音楽 | Comments(0)

『いま、心身一如の時代に必要なこと』原田道一  坐禅とは何か

p91 坐禅の姿勢にすべてを任せる

 坐禅の内面に迫ったこの部分は、坐禅の初心者には分かりにくいので、短くまとめます。

    <現代の我々は人間の能力を知、情、意の三つに分けて考えます。これは西洋流の考え方で、分別(ぶんべつ)の能力と言ってよいでしょう。異なる源泉で発達した東洋の仏教は、「無分別の能力」を問題にします。人間として生まれて来た「生来の自分」は、分別の能力たるアタマを主人公と思い、「アタマが生命を支配する」ものとして、無分別的生命に対して管理し、指図します
禅では、「無分別の生命」のことを「本来の自己」という言い方をします。
「生来の自分」は、アタマを使いコトバを使い、すべてを管理分別し、世の中の物事をコントロールしようとする自分です。

対して「本来の自己」とは、管理分別の意志を手放し、人間をこの大自然に存在する一生命体として受け入れる態度です。アタマを手放すのです。坐禅は、このことの実践です。

坐禅は、超分別的「生命」の姿勢です。すべてを大自然に任せた姿です。

坐禅は一生を「すわり」として坐禅しなければなりません。悲しい、嬉しい、の感情にだまされないように、もちろん、泣きたいときには泣き、絶望する時は絶望し、それを自己の正体として、本来の自己として、受け入れていく態度です。>
『いま、心身一如の時代に必要なこと』原田道一  坐禅とは何か_c0356158_16061440.jpg
  
  坐禅とは、自己を手放してすべてを大自然に任せて行く態度、このように祖師方は述べられます。「坐り」とは、手足をたたみ、アタマを手放し、身体の姿勢にすべてを任せてただ「坐る」こと。つまり、大自然のなかに溶け込んだ一生物の境地に自分を置くこと。しかし、これがなかなか難しくて、アタマ(脳)は留まることなく出しゃばってくるので、澤木興道禅師は、「これがアタマの仕事だから、追うな、追うな」とおっしゃっている。考えが湧いてきたら、追わないでそこから離れる。こうして考えに没頭することを避けるのです。(修行を積まないとできません)


# by Kinotomii | 2024-03-20 16:08 | 宗教 | Comments(0)

『いま、心身一如の時代に必要なこと』 正宗寺東堂 原田道一 

2020年10月20日発刊です。

『いま、心身一如の時代に必要なこと』 正宗寺東堂 原田道一 _c0356158_16300077.jpg
原田道一東堂が継ぎ、現御住職に継承した正宗寺は、かつては雲水さん達を育てる僧堂でありました。
永平寺七十五世山田霊林禅師は、ここの出身です。

正宗寺は、いかにも山寺といった趣の「日本昔話」に出て来そうな感じの良い懐かしさをかもしながら、田んぼの向こう側に数十年変わらぬ全景で建っています。
飛騨高山の丹生川町にあります。

この本には、現代の私たちが改めて考え直さねばならない内容が詰まっています。
が、それは今はさておいて、禅僧である原田東堂が一般の私たちに説かねばならない第一義「坐禅とは何か」を本の中から抜粋してみたいと思います。大変わかりやすく説かれています。

p91
坐禅の姿勢にすべてを任せる
    <普通、世間では、「坐禅」というと、精神統一することとか、無念無想になることとか思われています。しかし、私が参究させて頂いている道元禅師の教えである只管打坐(しかんたざ)は、「ただ坐る」ことであり、ただ坐禅の姿勢にすべてを任せてゆくことです。
 それは、「居眠り」と「考えごと」という二つの迷路に落ち込まないで、いや、その迷路から引き戻って、はっきりと覚めて、考えを追うことなく、ただアタマを”手放して”いることです。
それは、アタマをカラッポにして何も思わないことではないのです。人間は、アタマにいろいろのことが浮かんでこそ自然です。ただし、普段のわれわれは、このオモイをアタマでつかみ、このオモイを追うことによって、さまざまに行為します。

 坐禅の時は、オモイはオモイに任せて、消えるは消えるに任せるだけ。これを「長空白雲の飛ぶをさえず」と言います。>
(オモイを追いかけない)


以下は次回に回すこととして、3月8日、飛騨高山の山野は、まだ雪が残っていました。
『いま、心身一如の時代に必要なこと』 正宗寺東堂 原田道一 _c0356158_16170724.jpg
『いま、心身一如の時代に必要なこと』 正宗寺東堂 原田道一 _c0356158_16172731.jpg

# by Kinotomii | 2024-03-12 17:35 | 宗教 | Comments(0)

春が来た

薬師寺の白梅
春が来た_c0356158_16004705.jpg
今は人もまばら
ゆっくり写経できる。
春が来た_c0356158_16030750.jpg

思いがけず駐車場横に河津桜が八分咲き
春が来た_c0356158_16012661.jpg


写経中に思いがけない同級生から電話が入った。
昔私が書いた本を読んでいて懐かしくなった、と。
もうこの歳になったら、良い事はすぐにとりかかるのが良い。
そういうことが嬉しい年齢だ。

この8年の間に大切な友人ばかり次々失ってきた。
もう、自分もいつ逝っても良い、という気持ちで来たが、春になれば梅も咲き桜も咲く。
生きていれば、自然と開いて行く運もあるのかな~。

思いがけない人々と新たな御縁ができて、人生は面白い。
このハートのクッキーは、毎年ドイツ国際平和村に送るため、手作りされる女性の手になるもの。
春が来た_c0356158_16010413.jpg
「来て」「来て」とのお誘いに迷うことなく上がり込む。
ただし100円の寄付が義務付けられて、このお金も毎年ドイツに送られる。
コロナ以降、海外への小包みは手書きでは受け付けないから、彼女は八十歳を超えた身で、パソコンで宛先のラベルを作られる。

お付き合いしている八十歳以上の人々が凄すぎるから、七十代の身は「若い 若い」といつも言われている。
五十代の頃、七十代はずいぶん年寄りでいつ死んでも悔いはないのに、、なんて思っていた。あれは何だった!

生き方で強烈な刺激をくれる関係者が多すぎて、ついつい引きずられながら、日日是好日、桜を待ち、木蓮を待ち、しながら有難く生きて行かねば。


# by Kinotomii | 2024-02-29 16:43 | 雑記 | Comments(0)