京都市交響楽団第608回定期
若いころ、コンサートといえば大フィルか京響ばかりだったもので、フェスティバルホールで一番多く聴いたのは朝比奈隆だった。
といっても、十の指に足りない回数だけど。
そのころ、朝比奈隆の指揮は、端正で重厚できれい、といった印象だった。
ところが、さっきのテレビで見た練習風景では、情熱的で熱心な別の顔を見せて下さった。
「指揮者は胸に燃えるものを持っていないと、団員を燃やせない」
名言だ。
いつも思う。指揮者の力量次第で楽団の音が違う。
指揮者の顔の見えるところから広上淳一の指揮を見、演奏を聴いた時から、
このことが、方程式のように間違いのないものとなった。
でも、熱情は指揮者の後ろ姿からもわかりますけどね。
で、608回は、下野竜也氏。
前からこの人の指揮を聴きたいと思っていた。経歴がちょっと変わっているということと、パーソナリティが面白い、と故郷鹿児島の友人に聞いていた。
曲目もブルックナーですから、変化が多いから居眠りせずに聴ける。
思った通り、なかなか良かった! 力が入っていて引き込まれた。
つい、身体を前に乗り出してしまった。
指揮に魂が入っていると、演奏する団員の方々もピッと集中するのが客席からもわかる。
京響の弦楽器の音はとても美しい。
今回のブルックナーの交響曲0番ニ短調というのは、ビオラが活躍する。
普段はビオラがどこを担当しているのかよくわからない曲が多い。
しかしこの曲は、低い、胸に響いてくるような印象深いビオラの音の繰り返しが、そのたびに聴く者の集中力を高めてくれる。
招待ピアニストは、パスカル・ロジェというフランス人だったが、いかにもモーツアルトらしい優しい音だった。
拍手も多かった。何回も何回も出たり引っ込んだりされた。
もうこのくらいで解放してあげましょうよ、と思っていた。
でも、アンコールに応えなければ解放しませんよ、とばかり、アンコールのおねだり拍手は鳴りやまない。
あまりにしつこいと、演奏者に対して賞賛のつもりが負担になるのではないか…、と考えるのは、ミシガンで聴いたベルリンのアバドーの指揮の時からだ。
2001年、アバドーは、ベルリンの指揮者を引退する、と宣言してこの年、世界中を引退行脚していた。
曲はベートーベンだった。
私はこちら方面にど素人だったが、その私にも演奏の言うに言われぬすばらしさは十分にわかった。
演奏後、客席が総立ちになって、拍手はいつまでも鳴りやまなかった。
アバドーは何回も出ては引っ込んだが、ついにアンコールに応えることはなかった。
本曲に全精力をつぎ込んだら、次に小品をおまけとして演奏するのは、観客が考える以上の負担に違いないし、本曲が上等の和菓子だとしたら、その後で、アンコール曲の駄菓子を食べると、コンサートの印象は、和菓子ではなく、駄菓子になってしまう。
アバドーの胸にもこれがあったのではないか、と密かに考え続けている。