不思量と非思量
大谷哲夫氏 (前駒澤大学総長)の『正法眼蔵 永平広録 用語集』の説明を並べてみよう。(『大法輪』第79巻から)
不思量=一切の思量分別を停止すること。考えることの徹底した否定。無我の絶対的な思いはかり。
非思量=「考える」という意識活動をしない状態ではなく、考えながらその考えに伴うとらわれを脱した脱落の思量、非の思量のこと。道元は、坐禅は佛行であるから思量は思量を超えて、そこにこそ有念無念の思いを超絶する非言語の世界に坐禅の極致が現成するのだ、と坐禅のあり方を明らかにしている。
改めて普勧坐禅儀の坐禅の要術のところを検討すると、
「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。」だから、
坐禅は、
1、<不思量底を思量せよ>⇒「考えることを止める」ことに努めよ。まずは、何も考えるな。
2、<不思量底如何が思量せん>⇒何も考えないとは、どんなふうな考え、思いの状態なのか?
3、<非思量>⇒湧き出る考え、有念無念の思いを追いかけない。それに捉われない。それを脱した非言語の状態である。身心脱落した状態である。
と、言葉にすると又嘘っぽい。佛の前に、身も心も投げ出して、すべて佛にお任せし、湧き出る思いに執着せず……。すべてお任せした時に、その状態がそのまま佛である、と道元禅師は仰っているようです。
しかし、凡愚の自分は、何も考えないどころか、時には集中して一つの考えに没頭していることもある。
考えが迷走している時もある。
澤木興道禅師は、「追いかけるな、追いかけるな」と仰っている。この非言語状態にすぐなれれば苦労はないわけで、毎日の感情に翻弄されているのが人間だ。
しかし、これは「慣れる」ことで、近づけるような気がする。つまり、非思量とは、Non thinking とは、自我を捨てた状態だから、坐禅を続けるうちにこれに慣れ、非思量状態を頂けるようになるのではないか。
そして、これを続けることができれば、周囲の何にも左右されない素直な一つ抜け出たような精神状態を頂けるような気がする。
「坐禅は何にもならない」とよく言われる。何かを狙ってしたら、これは上に書いたような真の坐禅にはならない。何も考えず、自我を捨て、佛の前に本来の真の自分を投げ出した時、不思議と澄み切った自分を頂くことができ、いつのまにかこだわっていたことが消えていたり、鋭い勘が働いたりして。だから、何も考えずまず坐ることが肝要。
花盛り