そういうことだったのか 坐禅は苦行ではない
これは、無駄な部分が一つもない、と思わせる。
すべてここに上げるわけにいかないが、次のところなんかは、「そうだったのか!」と心が軽くなる。内容はすべて、道元禅師の書物から採っておられるので、微塵も不安要素がない。
<年を取ると次第に体力も弱り、気力も弱りますが、それに反比例して永年癖をつけた雑念は根の張り方が広くも深くもなっていますから、調心に取り掛かると、しつこく邪魔をするのです。殊に困るのは体の癖が悪くなり、稀には腰の曲がらぬ人もありますが、大抵は腰の曲がるのが老人の当たり前のように大なり小なり曲がって来ます。坐禅は良いことだと思っても、端座をすることが心身を調える必須条件と知ると、腰の曲がった者は坐禅をする資格がないような気がして残念がる。(略)悪い坐相を直そうとはせず、直らぬものと決め込んでいる。これでは、調息も調心も本当のことはできないのです。坐禅を本当に理解して実習いたしますと、悪い坐相がだんだん直ります。(略)
坐禅の始め終わりには、欠伸のようなことをし、心身ともにリラックスし、体を前後左右に揺らせて(この部分は古典的漢語なので、勝手に現代風に翻訳した)
時には、坐禅中にも他の心を乱さない注意をして適当量動き、血行を調え、筋肉の硬化を柔らめ、骨幹のゆがみなどを矯正し、痛み、かゆみなどの異常感覚を消散させます。>
⇒ つまり、坐禅中も、体を動かして良いということだ。
<坐のたびごとにこれを行いますと、次第に坐相が整い、健全な体にもなってきます。老人の坐禅は、坐禅の始終の運動は特に必要で、正しい坐相を確保しますと気力も充実し、壮者をしのぐ好い坐禅が修得されます。>
⇒確かに、寒さや痛さをこらえて、我慢に我慢を重ねて微塵も動かない坐りをしなければならない、とは、今まで読んだことがない。今は畳敷きの単が多いが昔は板敷だっただろうから、「坐蒲の下には蒲団を敷き」とあって、最近、そこここで、坐蒲の下にふんわりした綿入りの木綿坐蒲団が敷いてあるのを目にする。アメリカでも床でする坐禅は、坐蒲の下に座布団を敷いてある。坐禅は苦行であってはいけないのでしょう。
これは、「フタリシズカ」ではなく、二輪草だそうです。