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女優 サヘル・ローズ

1年くらい前、テレビをつけたら、そこに映って話している人の美しさに目を奪われた。
これまで見たこともない女性である。
外見は外国人のようだが、言葉は純粋な日本語。外国語なまりがない。
だから日本人なのだろうが、最近の日本人女性にない美しさである。
顔の作りが美しいのはもちろん、目を奪われたのは、そのたたずまいである。
どうも、番組の進行係のようだが、その役割にふさわしく、
まず、長い黒髪を後ろでキリッとまとめてアップにしている。
爪はきちんと切り、キラキラの塗り物もない。そして、両手を前で重ねて話す。
衣服は高価そうではないが、素朴ながら、衿元、袖の長さ、スカートの長さが、上品である。
そう、一言で言うと、昭和の初期の頃の日本女性はこのようであったのではないか、と思わせるそんな上品なたたずまいである。

そして、話し方のスピード、間の取り方が適切で、不必要な抑揚がなく相手におもねない、そして、はしゃがない知的な話し方は、もっと聞いていたいとまで思わせた。
最近のニュース担当女性アナの、髪を幽霊のようにだら~んと下げた普段着感覚など、この女性に到底及ばないと思わせた。
日本の上品とは、このような人のことを言うのではなかったか。
どこか地方局の報道番組だったようにも見えたが、とにかく、私は、まだ日本にこのような女性がいた、ということに大変気をよくした。
以後、テレビで見かけることはなかった。

そして、次に目にしたのは、毎日新聞の昨年9月29日の里親特集であった。
驚いたことに、この女性は女優であり、イラン人であり、7歳の時に、施設にいたのを、今の母親である養母に引き取られて日本にやって来た女性であった。まだ若い養母と二人で、経済的、社会的な大変な苦労の末、現在女優業をしながら養母と暮らしている。
当然、自分が子供時代に困ったような境遇にいる子どもたちの支援もしているらしい。
なるほど、だから……、と私は思った。
美しいとは、外見だけを言うのではないことは常識とは言え、真に奥底からにじみ出てくる美しさは、人の目を奪う。
苦労して身に着けた教養は、ちょっとやそっとでははがれないし、周囲を圧倒するようなところがある。
女優業やタレントではなく、もっと社会に深くかかわるような仕事や役割への可能性を期待してしまいました。





# by Kinotomii | 2019-01-18 23:31 | 雑記 | Trackback | Comments(0)

白い毒

昨夜、「武士の家計簿」を再視聴して、珍しく涙にむせてしまった。男の子の育て方、父親の在り方、家の職業を継ぐとは、まっとうな生き方とはどのようなことか、…江戸から明治にかかるあの時代の武家の日常の中に日本人の生き方、考え方が再現されていて共感が持てた。
この中に、妻が出産する時、夫は大変貴重な白砂糖の袋を一つ妻に渡す場面がある。重労働である自宅での出産の体力の低下に耐えられるよう、妻はそれをひとなめしては出産に立ち向かう。ここでは白砂糖は薬ほどの価値を持っている。江戸の終わり、貴重な砂糖は、とても庶民の手に入るものではなかっただろう。が、大きな借金を返済中である夫は、妻のために大奮発する。妻は、砂糖の入っていた紙袋を一生身近において大切にした。

さて、
最近のスイーツと呼ばれるケーキ類の世の中への氾濫はどうだろう。
街中にケーキ屋さんの多いこと。
大きなケーキやアイスクリームを、さも美味しそうに放映するテレビの意図はどこにあるのか。
文化人と呼ばれる人々も、最近この風潮に対して、何も言わない。まず、文化人がいなくなったと言っても良いのではないか。最近のテレビにゲストとして座っている方々は、ほとんどお笑いの方々なのではないか。調査したことはないけれども。

30年ほど昔、白砂糖は「白い毒」と呼ばれて、甘い物の摂り過ぎには、いずこの主婦も気を付けていたものだ。今はどうなっているのか。
ネットで調べてみると、やはり……。
https://ameblo.jp/yoriyokimiraie-2013/entry-11985990846.html
ここまでとは思わなかった。

これは、不妊治療をしている女性鍼灸師のブログだ。
http://rakanka.mobi/white/
「白砂糖の害は恐ろしい」白砂糖は食品ではなく、危険な食品添加物です。
加えて、オーストラリアのドキュメンタリー映画、『甘くない砂糖の話』が2016年に作られたらしい。
砂糖の摂り過ぎは、体を冷やし、脳を砂糖漬けにし、子宮壁を薄くする。
子宮壁が薄くなれば、精子の着床が難しいそうだ。最近の若い女性は子宮壁の薄い確率が昔より格段に大きいそうだ。理由はわからないが、もし、こんなことが妊娠率を下げているとすれば、全くばかばかしい話だ。
最近の産科医は、このようなことは言わないのだろうか。
これは、100歳の母を持つ80歳の東洋式治療院を開業している方から聞いた。
この治療法は、現役の産婦人科の看護師さんたちも資格を取って、週一くらいの間隔で開業していらっしゃるテルミーという温熱治療法だ。私は20年前からの愛好者だ。身体中のリンパ液を流し、コリをほぐし、神経がほぐれる。神経がほぐれればぐっすり眠れる。
日々医療現場の不自然さを目にしていれば、専門家ならもっと人間的な治療法を求めるのではなかろうか。

不妊治療を専門にしている医師からすれば、着実に妊娠してもらうことが一番いいだろうが、そうでなくても、失敗の数が多ければ多いほど、意地の悪い憶測をすれば、彼らは儲かる計算だ。
本当に誠意のある医師を選ぶべきだ。子宮を作っていくところから診てくれる医師を。ネットなどで大々的に現代医療をうたっている病院が良いとは限らない。
こんな時こそ、噂ではなく、見抜く目を持たなければ。

おまけに、精製された砂糖は、その製造過程で、多くの薬品を使うようだ。

ケーキやアイスを日常的に食べて、良いことは一つもない。
こんなことは、私たちが普通のバランス感覚を持っていれば、何かおかしいと感じるのが普通ではないか。
日常の食事だけで、私たちの体の炭水化物は十分足りているそうだから。

30年ほど前、子育てをしていた頃、母親たちはできるだけ白砂糖を使わない料理を心がけていたものだ。テレビ、新聞、学校からの教育もあった。
その努力も空しく、すでに大人になったかつての子供たちは、安易に流行に乗って、甘い物の大食いをすること!
かつて、大人たちは子供の食べる物に細心の注意を払って、子供たちの健康を守ったことなど、彼らには想像もできないのではなかろうか。それほど、世間のメディアによる影響力は大きい。親よりもメディアを信じる子どもたち。機嫌をそこねたくないために、口をつぐむ親たち。

私はずいぶん前から不審感を持っている。なぜ大きな声で砂糖の脅威を言う人が少なくなったのか?
どこかの国から砂糖を輸入する関係から、政治の圧力でもあるのか、と。




# by Kinotomii | 2019-01-03 17:56 | 食べ物 | Trackback | Comments(0)

ピアスと托鉢僧

「托鉢」とは、最近あまり見ないが、お坊様が鉢(はつ)を胸に抱えて、家々を一軒一軒回り、食(じき)を乞うて回る行です。修行の一環なのです。
全くの他人に物乞いをすることは、誰でも激しく嫌なことです。
それをあえてやることが、修行なのです。
そうするためには、自我を殺し、己を空しくしなければできません。
四国の瑞応寺では、2月の酷寒の時期に、托鉢行を行っておられる。
最近では数少ないお寺さんです。

ところで、大分昔からだが、自分の乗降する駅の改札の前に、頻繁に、お坊様らしきいでたちの方が鉢を持ち立っておられるのを見る。
今日も笠を深くかぶり、口の中で何かぶつぶつ言いながらー恐らくお経を唱えておられるものと思われるーが立っておられた。
以前は別の方だったと思うが、最近はこの方である。
私はこの方を見るといつも、布施しようかな、と思う。
でも、気恥ずかしい思いが先に立ち、素通りしてしまうのが毎回のことである。
今日も後ろ髪引かれる思いで通り過ぎると、同じように一度は通り過ぎた十代の男子二人が、立ち止まって、この乞食スタイルの方の方を振り向きながら話し合い、お互いに小銭を出している。
二人はちょっと派手目のジーパンをはき、髪を薄く染めた格好をしており、ピアスをしていた。

「あっ、やるな」
と思って注目した。自分の分も一緒にこの二人に足そうかな、と思いつつ、大人というのはつまらない世間体を考えるもので、つい、横目で見ながら通り過ぎた。
すると、二人のうちの一人が、小走りに走って、敷物を敷いた黒い鉢の中に小銭を入れて、素早く駆け戻ろうとした。
二人とも、照れを顔面一面に浮かべて頬が紅潮している。
ところが、どうも、このお坊様が呼び止めたらしい。二人は振り返って待っている風である。
見ると、お坊様は頭陀袋の中に手を突っ込んで、キャンデーをわしづかみにし、二人に渡した。照れ笑いを浮かべて、二人は目を見合わせると跳ねるような後ろ姿を見せて去って行った。
多分、親御さんは、自分たちの息子のこんな側面を知らないに違いない。
私は、いいものを見たなぁ、と思った。
優しい男子二人やな~。

これが、托鉢行、乞食行、の目的です。わが身をむなしくし、自我を捨てて他の前に無我の状態で立てるかどうか。
又、他に対しては、布施したいという佛心を起こしてもらう事。
良いことをすると、良いことが返ってくるという恵の循環を、この二人の若者は、意図せずしてわが物としたに違いない。

施すことも案外勇気がいるが、他に乞うということも苦しかろうと思う。
寒い時期、暑い時期、じっと立って人々からの施しを待つのみ、という苦しさは、坐禅より苦しいのではないか。

ところが、この行動は法を犯している、という意見もある。
そんな意見がちらちらし、素直に小銭を入れられない。又、偽善者ぶって、と思われるのも嫌だ。こんないい歳をして。
これが、我、なんだろうと思う。無我になり切れない煩悩が燃えているということは、まだまだ困っていないということ。

京都には禅寺が沢山ある関係で、修行の一環として、しょっちゅう托鉢行を見る。
家々の門に立って下されば、米一合でも布施出来るのに、と思う。
お坊様方は、僧侶の本分を忘れないためにも、もっと托鉢に出て欲しいものだと思う。
私の知っているお寺さんの御住職は、一月に一回托鉢に出ていらっしゃるそうだ。
それを聞いてびっくりした。
びっくりしなきゃならないほど、最近では珍しいことなんですよね。
もっとびっくりしたのは、意外に布施が入るそうです。

昔、瞽女さんという人たちが三味線を持って門に立ち、歌を歌っては些少なお金を貰っていらっしゃったのを思い出す。
私の故郷では、「東郷のザッツどん」と言った。男瞽女とでも言ったらよいか。目が見えず、杖をつき、鍋釜すべて体に括り付けておられた。
その存在は、案外人々の精神活動に寄与していたことが、今わかる。
他人に恵みたい、という気持ちを引き出していたという意味で。


# by Kinotomii | 2018-12-16 22:56 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

坐禅の神秘 森山大行 2010年

森山大行 老師 2010年(瑞岳院創建者)

「坐禅の深さに関する尺度はいろいろあるが、私自身が個人的に感じた時間に関する観点から考えると、坐禅の深さには5つのレベルがある。

      1、坐禅をしていても妄想ばかり
      2、坐禅をしている時間が短く感じられるレベル
      3、坐禅をしている時間が深く長く感じられるレベル

      4、時間の経過を感じなくなるレベル

      5、時間を自在に作り出すことができるレベル」

また、参禅者から「坐禅の深いレベルに達するためには、どのような修行が必要なのでしょうか?また、どれぐらいの期間、修行すればよいのでしょうか?」との質問に対して

  • 「個人の資質によります。すぐに深いレベルを達成できる人もいれば、深いレベルになかなか到達できない人もいます。でも心配はありません。私も修行して深いレベルに達成できたのですから、皆さんも必ずできるはずです。」

とはいっても、参禅者としては、自分の坐禅が現在どのレベルであっても気に病む必要は全くありません。曹洞宗では坐禅を強調するため、坐禅の出来不出来や覚りを得られるかが気になるかもしれませんが、そのような目標に至ることが本質ではないのです。

普勧坐禅儀で道元禅師は

<いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。>


と述べています。道元禅師の勧める坐禅は、仏法修行の一部分として行う坐禅ではありません。その坐禅の中に仏法のすべてがあるのです

(ある禅者のブログより転載。坐禅をしている方の中には、宗教には一切関わりたくない、と言われる方もあるが、坐禅そのものがすでにわが身をそこに投げ入れていることで、不思議と何らかの啓示が得られる。)ブログ主




# by Kinotomii | 2018-12-04 07:34 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

祈りの竪琴

キャロル・サックさんは、アメリカ人宣教師であり、「音楽サナトロジスト」である。
日本に来て35年余り。
主に、東京山谷地区で活動しておられる。
この地区のホスピスや、家のない人、行き場のない人々の在宅ケア施設を回って、竪琴によって人々の魂の救済に努めておられる。

「こころの時代・祈りの竪琴」 では、「きぼうの家」で死を待つ人々への癒しを、竪琴の音によって静かに行っておられた。病人は、初め目を開けて天井を見ておられたが、曲が終わるころには、静かな眠りに入られた。

これは、Ryra Precaria (リラ プレカリア=祈りの竪琴)と言い、ラテン語から来ているそうである。
病人の呼吸のペース、特に吐く息に合わせて竪琴を奏でることにより、魂の救済がなされる。

興味深いと思ったのは、「魂」を表すヘブライ語とギリシャ語が、共に、「息」「呼吸」と同じ意味である、とおっしゃった時である。

「人間の魂と呼吸には、何かの共通点があると私は思います。魂は目で見えないものですが、目で見える呼吸を通して触れることができる。こんな形で魂に寄り添えるならすばらしい」
と、キャロル・サックさんがおっしゃった時、ふと坐禅のことが頭に浮かんだ。
坐禅も究極的には「呼吸」だ。特に、吐く息を大切にする。呼吸の調和により、魂の深い無意識の層にまで到達できるらしい。
この大宇宙はすべてが繋がっており、形や表現する言葉は違っても、究極的には真理は一つ、と思わせる場面だった。






# by Kinotomii | 2018-12-02 22:37 | 宗教 | Trackback | Comments(0)