『人生料理の本』内山興正(こうしょう)
40年間本棚に立ててあったもの。
ある禅者のホームページで久しぶりに目にし、「そういえば、あったな…」
と取り出してみた。
写真でもわかる通り、色があせシミも出ている。
一応読んだらしく、あちこちに( )などしてある。
、『典座教訓』の訓み下しと共に、内山老師の現代語訳も加えてあるものです。
「典座」とは、叢林の食事係の僧のことで、『典座教訓』は料理の心構えを述べながら、すなわち、「自己の生活態度」「人生にとって一番大切なことは何か」を教える「東洋的行の世界」が生み出した最高真実な宗教書である(本書から)ということだ。
道元禅師の『正法眼蔵』などは、翻訳があってもチンプンカンプンだが、こちらの方は内山老師の易しい現代語訳付きであるから、謎解きを楽しむように興奮しながら分け入っていける。
若いころ坐禅に入れ込んで、21-22歳のころ、京都の玄琢というところにあった安泰寺に通った時期があった。(現在は兵庫県に移っている)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%B3%B0%E5%AF%BA
ここの御住職が内山興正老師であった。
内山興正老師の提唱が聴ける http://antaiji.org/ja/services/)
⇒さかんに、仏法とは、「頭の手放し」と説いておられる。
坐禅がブームになったころで、老若男女、様々な人々が集まって、小さなお寺ははちきれそうだったような記憶がある。
小さな本堂に入りきれないので、それなりの修行を積んだ(であろうと推測する)参禅者の方々のみ、むずかしい顔で法話を聞いておられた。
大した禅修行の経験もなく、智者でもなく、一介の21歳の娘であった私は(1971年)→古い写真を確かめたら1972年、22歳であった事が判明したので訂正。
それでも、心が生き生きと踊り、楽しかった。
そのころ、内山老師は御病気がちだったのか、お寺にいらっしゃらないこともあった、ように思う。
代わりの僧の方が提唱のようなことをされ、入りきれない人々は外にたたずんで、それを聴いた。
途切れ途切れに聞こえてくる、年齢的にも大先輩である道心を持った人々が質問していらっしゃる内容は、知識がないためさっぱり理解できず、これだけでも自分がいかに卑小な存在か、と自覚させられた。
それだけに、「勉強したい。少しでも昇りたい。近づきたい」という気持ちは切実だった。
あれから40年以上が過ぎ、今再び、間接的な禅へのご縁ができた。
ある仏縁により、アメリカの龍門寺禅センターのご住職の本を翻訳する機会に恵まれている。
易しい英語で佛教を説かれるとなおさら理解が難しい部分もあるので、具体的に日本語の現代語訳で説かれる『人生料理の本』を再び読めることが有り難い。
「自己ぎりの自己を生きる」