小倉玄照 『新普勧坐禅儀講話』②
普観坐禅儀 の本論のことを「正宗分(しょうしゅうぶん)」とある。
ここで坐禅の本質をほぼ言い表しているように思うので、自分の頭の整理のために書いてみようと思う。
文章も美しい。
通訓によると、…ちなみに通訓とは…これは元々は漢文だから、翻訳解釈した人物と時代によって意味が異なる部分がある。この本での通訓とは、永平寺僧堂で毎夜坐中に読誦されている訓のことです。
「それ参禅は、静室宜しく、飲食(おんじき)節あり。諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思はず、是非を管することなかれ。心意識の運転を停(や)め、念想感の測量を止めて、作仏を図ることなけれ、あに坐臥に拘はらんや」
<さて参禅の方法であるが、まず静かなところがよろしい。飲食も節度がなければまずい。さまざまな関りをすべて捨て、あれこれなさねばならぬこともとりあえずやめて、善悪も考えず、是非にこだわらないようにすることである。心のはたらきをやめ、さまざまな執着からのがれようとする思いも捨て、仏になろうと考えてもならぬ、が、それはただ単に坐っていることともわけが異なるのである。>
昨夜は坐りながら記憶が途切れ、頭がコックリを始めた。
警策が欲しい、と思いつつ、法界定印を結んだ両指の先がほわっと離れていくのがわかった。
ちなみに、両親指の先は、間に紙一枚を挟んだほどのデリケートな接触を常時保ように指導される。
これは、常に集中が要求されることでもある。
一人坐っていて形が乱れ、どうしようもなくなったら即やめる方が良いと判断した。
こんなことは今まであまりなかったが、よほど疲れていたと見える。
即坐禅を止めた。
昔先輩から聞いたことだが、初心の参禅者は、指導者のいないところで一人で坐禅をしてはならぬ。
たまにおかしくなる人がいる、と。
坐禅は、<ただ坐ることとも異なる>と本論でちゃんと述べられているように、くどくど言われるだけのことがあるのだろうと思う。
坐る形も詳しく述べられていて、決まった型を重要視するのにも意味があるのだと思う。
何かあるのだろうな、と思うものの、あまりに高邁な思想が控えているため、これ以上は考える気にもなれないし、その必要もない。
何しろ、「考えるな」と最初に断りを入れてあるのだから。