いかなごや見知らぬ町を好きになる sousekisan
* いかなごや見知らぬ町を好きになる sousekisan
スーパーにいかなごのくぎ煮が出ていて、もうこんな春なのか、と思う。
お隣のYさんが東北に越して行ってから、1年が経ったことを改めて思う。
Yさんの御主人の出身は神戸だったから、春になると、
「私が煮たので、おいしいかどうかわかりませんけど」
と言って、毎年いかなごのくぎ煮をおすそ分けして下さった。
今年はそれがない。
あの、いかなごを煮る匂いは、それだけでご飯が食べられそうなほどそわそわする匂いで、
「あ、来る来る」
と用意周到にごはんを炊いておく。
いかなごのくぎ煮は、他のおかずはいらない。
熱々のご飯にのせて一気に食べる。
「日本人で良かった」と大げさでなく思う。
Yさんがいなくなってから空き家となったお隣は、草がぼうぼうとなり、
洗濯ものを干すときに、いつも
「おはようございます」
と声掛けをして下さった、あの懐かしい声を聞くことはなくなった。
引っ越されてからしばらくは、洗濯物を干すたびに、
「ああ、もういらっしゃらないんだな」
と淋しく自分を慰めねばならなかった。
この人はいい人だな、と思うとき、自分の中にずっと変わらぬある価値観があることに気づく。
”正直で飾らない”
これは、相手を信頼していないとできない、人間としての強い資質だ。
つまり、相手に対して自分をさらけ出すことができる、というところにつながる。
これは、禅の心に共通する。
自分をいい人に見せたい心はどす黒い。
Yさんは、でも真に強かった。母としても。
思い出すと涙になりそう。
長いこと飼っていたビーグル犬が、ひっこしを前に静かに死んだとき、
私の家のインターホンを押して下さった。
姿が見えた途端、Yさんは顔を真っ赤にして泣き出した。
どうやって東北まで犬を運ぼうか、と思案していて、二人で洗濯物干し場で話したこともあった。
それを、ビーグル犬は聞いていたに違いない。
それを思うと、二人して目を真っ赤にした。
Yさんの心根が美しいから、苦しいことも、難儀なことも、魔法のように浄化された。
私の人生には数少ない、春のうす寒い風に咲いた白梅のような方だった。