安部首相の握手と楢崎通元の握手
握手一つで相手への親密感を伝えることもできるし、
意気込みを伝えることも、嫌悪を伝えることも、誠実を伝えることも、意志を伝えることもできる。
そのために、相手の手をぎゅっと握りしめることが礼儀とされる。
この度の安倍首相のアメリカ訪問で、トランプ大統領との会談後の握手の様子をニュースで見た時に、「あっ」と声をのんでしまった。
左側に立った安倍首相の右手を、右側にいるトランプ氏が右手で包むように力強くささえていたが、安倍首相のその右手には何ら力がなく、なよなよと相手に任せきった表情。顔もうつむきがちであった。
あまつさえ、トランプ氏は、左手で安倍氏の右手の上に慰めるかのように自分の左手をかぶせた。
格上が格下に「Fine 」とでも告げているようであった。
一国の首長同士の対等な握手とは見えず、日本人として残念だった。
安倍首相が握手の意味を知らないはずがない。
これで、交渉は日本側の負け、アメリカに借りでも作ったのではないだろうか、と思わせた。
オバマ前大統領もよくこの格上握手を相手にした。
それは、握っている相手方の上腕部からひじにかけてを撫でたり軽く叩いて、相手への親密性を表しているかのように見せながら、その親密性は、オフィシャルな場では「Too much」であり、結果として相手を格下に見ていることがわかるのである。
あるいは、劣等意識を隠すため、あえて大きな態度を取っているのかもしれない。
さて、お坊様方は、あまり握手には縁がないかもしれない。
佛教の場合、ほとんどの挨拶は「合掌」で済むから。
今年1月、瑞応寺を訪れたとき、楢崎通元老師と握手する機会に恵まれた。
杖を左手に預けて老師が右手を出された。
私はいつものように、ちょっと小さめの老師の手を取って、ぎゅっと握った。
すると、通元老師の眼がキラリと光った。
そして、どうしたことか、力の限り、きつくきつく握り返して来られたのである。
そこには真剣な意志が感じられた。
「まだまだ負けんぞ!」
とでも仰りたいかのように。
「おっ」と思った私は、
「じゃぁ、私もお返ししますよ。負けませんよ」
という気持ちで、更に強く握り返した。
二人で、真剣に相手の眼を見ながらきつく握手している姿は、どこか滑稽でありながら、この一瞬にかける素と素のぶつかり合いであったと思う。
この一介の在家訪問者に対して、長年多くの修行僧を率いて来られた92歳が、素の、掛け値なしの存在を示されたことに対して、私には敬意の感情が湧いてきた。
後で思った。
それにしても、通元老師の指の骨が折れなくてよかった。