席を譲ること 譲られること ①
友人のご案内でMIHO NUSIUMへ行くため京都に向かっていた。
電車はそこそこ混んでおり、私は吊革にぶら下がっていた。
すると、電車が発車して5分ほどして、3~4席離れたところに座っていた若者が、立ち上がって「どうぞ」と、自分の席を勧めた。
私はとっさに「いえいえ、(私、本当は若いんです)」と、( )のところを呑み込んで顔面で手を左右にヒラヒラと振った。
しかし若者の表情は、当然という確信に満ちており、ここで断るのは相手に恥をかかせると思われた。
「ま~~、すみません。ホ、ホ、ホ…」と愛嬌よく恐縮して、
「ありがとう」とその若者にお礼を言って、優先座席のそこに腰かけた。
このシルバーグレイの髪も、良いのやら悪いのやら…。
若者から見たら年配者は皆同じ顔に見え、年齢の過多は、髪の色での判別がまず行われるのは間違いない。
同年配の人々は、大方が「美しい」と褒めてくれるし、
これまで、行きずりの見知らぬ女性たちから数多の賛辞を受けているというのに。
私も若い頃は、年寄りは皆同じ顔つきに見えたことを思い出す。
今では、若者の顔の判別が難しくて、女優さんの色々も、なかなか覚えられない。
一駅が過ぎたころ、入り口の方から、年の頃は70を超えておられるかも、確実に自分よりは年上であろうと思われる女性が、私の前に移動してきて立たれた。
髪は茶色に染めておられるが、同年齢の者には、相手の年齢はほぼわかる。
(立って譲るべきだろうか。どうしようか……。いやいや、この年頃の女性には、時々運動代わりに電車内で立つことを課している人がいらっしゃるから、下手に言うのもどうだろうか。あるいは、私はあなたより若いわ、と誇示したい人もいらっしゃるから、却って手ひどい反応が来たら嫌だし…云々…)
と、しばらく深吟苦悩しながら迷っていると、私の右隣に座っておられた三十代から四十台初めと思われるビジネスマンらしき男性が、「どうぞ」と自分の席から立って空いた席を指し示された。するとその女性は微笑んで
「いいえ」と手を眼前で左右にヒラヒラと振ってお断りなされた。
立った男性は再び席に座られた。
そうこうするうち、次に止まった駅で、歩くのも危なげなご老人とその妻と思しき御老女が、夫を支えつつ自分もしんどそうにしながら優先座席に迷うことなく進まれた。その辺の一人がさっと立って席を譲り、ご老人はドサリと腰を下ろされた。妻と思しき御老女は吊革を持ち、夫の前に前かがみに立っておられる。
すると、さきほど席を譲ろうとして断られた右隣のビジネスマンが、後ろから女性の背中をトントンとし、「どうぞ」と席を勧められた。
女性は迷うことなく、その席目がけ、やれやれ、といった風にしてよろよろと腰かけられた。
私は、このビジネスマンも親切が無にならず良かったなぁ、と思った。
降りる段になって、このご婦人が立ち上がろうとするが、足の力、腹筋の力が足りないらしく、二度、三度、トライされて、立ち上がることができなかったので、私はその方の腕を持って力を貸した。
よっぽど歩くのが難儀なご夫婦だ、とその時実感した。こんな人々のために、優先座席はあるのである。
電車内では、快く席を譲る乗客もあれば、しんどそうにしている人を目の前にしても、無視する人もある。
譲られて気持ちよくお礼を言われる人もあれば、せっかくの親切を断る人もある。
この「席を譲る」という単純な行為の中に、双方の簡単ではない思慮熟慮が存在する。日本人の場合は。
外国の人々は判断が速い。困っている人には手を貸す、というこの単純な一事で行動できてしまう。
しかし、なぜか日本人の場合は(ひところよりずいぶん改良されて、若い人たちが屈託なくこの善行を行う場面が多くみられるが)、一声を発するのが難しい場合がある。
断られたらどうしよう、とか、偽善者に見られないだろうか、とか、色々考える。
でも、こんなことを考えている場合じゃないときもある。
去年の大型台風で大きな木が何本か倒れたので、境内の木が何本も伐採され、裏山に繁っていた椎の木の大木も大きく剪定され裸ん坊になっていた。自然災害に備えて整理され、興聖寺が生まれ変わりつつある。