『満つる月の如し』中務(なかつかさ)の真心
『満つる月の如し』の中務(なかつかさ)は、多分一生忘れられないインパクトを持つ人物となった。
この小説は、天才仏師、定朝(じょうちょう)を中心に、天才的な頭脳を持つ比叡山の僧、隆範(りゅうはん)を副主人公のようにからめながら、道長時代の不毛の時代を活写している。
定朝が主人公のようであるが、しかし私は、隆範が真の僧として目覚め、ぎりぎりまで仏弟子の在り方を追求した果ての物語と読んだ。
この二人の男たちの、見えない火花がすごい。
片や芸術を極めるため、片や真の仏弟子たらんとぎりぎりまで修行に邁進する。
正に、天才は天才を知る。
「中務」は、中宮彰子に仕える女官。
従兄である敦明親王の深い悲しみを知る、ただ一人の人である。敦明は、名ばかりの親王である。
道長の専横により、財産はそのままに、権力はすべて奪い取られる。そこから来る親王の乱暴狼藉に、中務は、「迷子」の子供の不安と、手足をもぎ取られた生物のやるせなさを、自分のこととして感じたのだろうと思う。
乱暴を働くたびに敦明親王を守り、かばい、どこまでも「あなたは本当は、優しい人なのです」と側に付く。
誰もが敦明を諦め切り捨てようとするが、中務は、敦明から撥ね付けられ相手にされなくても、決して敦明を諦めない。
これは、恋愛感情などではない、ということ。
中務は、実は見目麗しい女性なので、男たちからの申し込みが引きも切らない。
しかし、全く相手にしない。
作者は、中務に菩薩を重ねた、と言ってもよい。
私は、最後には中務の慈悲の心は通じるだろう、通じなくてはならないと予想していたが、
「慈悲」とは、生易しい同情や共感を超えたところにあるものだ。
己を削ることなしにはあり得ない。身を削ってこそ、相手に通じる真心と言うべきだろう。。。
すべてを捧げつくし、与え尽くす。
こういうことは、恐らく、非思量の世界で、体の底からうねりのように湧いてくる説明のつかない人間の本質。これをこそ、「仏性」というのではないか。
あえて言葉で説明するなら。
そして、中務の最後は……。
澤田瞳子氏の小説は、どれも甘ったるい結末はない。
しかし、納得のいくものだ。
この小説も、定朝、隆範、中務の三人共に、仏法に照らして納得のゆくものとなっており、しばらくは悠久のかなたに遊んだ後のような清々しさを覚える。