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初発心の菩薩

経典に、
「仏道を求めようと志を起こすけれども、智慧がまだ十分でなく時々つまづく菩薩を、初発心の菩薩という」とあります。

初発心の菩薩の八つの罪
①偉ぶる心
②易きにつく心
③宗教屋になること
④宗派のエゴ
⑤仏法を生活の道具とすること
⑥貪欲、名利という雑菌
⑦私財を蓄える
⑧教義を作る

〇在家の菩薩とは、普通一般の生活を営んでいる人で深く仏法を信じ、佛法を規範として生活に生かし、しかも衆生救済の願行を持っている人をさします。

〇菩薩の精神は「衆生のために働く」という意志であって、たとえ煩悩があろうと、迷いがあろうと、そんなものは問題になりません。

上の文章は、88才の佛教徒の方から送られてきたものです。
文章はまだまだ続くが……。
例えば、①や⑤や⑥は、心に覚えがあるような。

佛教に不信感を持ち始めていたところに、ジャストのタイミングで届いた。
このタイミングも、お釈迦様の御計らいだっただろうか。
仏法は、もれなく解決の道筋を用意している。





# by Kinotomii | 2019-08-15 17:24 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

アーティカス

「アーティカス」とは、アラバマ物語の中でグレゴリー・ペック演じる弁護士の名前である。
二人の子供たち、兄のJem(7歳くらい)と 妹のScout(5歳)は、自分の父親を呼ぶときに、
「アーティカス」と呼ぶ。
普通、「パパ」とか、「ファーザー」とかが父親への一般的な呼び方だ。
彼らが父をファーストネームで呼びかけるのには、理由がある。

彼らがもっと幼い頃に母親が亡くなっているが、多分、その母は、夫に
「アーティカス」と呼び掛けていたことだろう。
それを聞きなれていた二人は、父を自然に「アーティカス」と呼ぶようになった次第が映画で感じ取れる。
しかし、父のアーティカスは、「ファーザーと呼びなさい」と正すことはしない。

因みに、この映画は、1932年頃を描いているが、同じ1932年に出版された
" Little House in the Big Woods" 『森の小さな家』ローラ・インガルス・ワイルダー 著
では、ローラが60年前を思い出してインガルス一家の物語を書いているが、父母のことは、"Pa" "Ma" と呼んでいたと書いている。
"Father " " Mother" "Mamma" " Papa" という呼び方はその地域になかったし、していなかった、と最初に断りを入れている。
1932年より60年前の物語だから、1870年台のことだ。日本では明治時代に当たる。「Pa、 Ma 」が
、日本語訳で 「父さん」「母さん」と訳されたものである。が、明治時代の猟師の娘だから、「父ちゃん、母ちゃん」くらいの感じかもしれない。
1932年には、しかし、ファザー、マザー、という呼び方はあったし、赤ちゃんが使う、ダディ、マミィ、という言い方もあったことが、アラバマ物語の映画の中で明らかだ。

ところで、子供達は映画の中では父のことを、「アーティカス」と呼んではいるが、父から何かを言いつけられると、ちゃんと” Yes, sir"  と、敬意のある受け答えをするし、グレゴリー.ペックは、自分のことを子供達に語る時には、Your father と表現する。この時代、アメリカでも、良識ある人々はfather mother を使っていたことがわかる。

つまり、この映画は、一切の偏見を排することをテーマにしているように思う。
黒人への偏見、社会に適応できない人々への偏見、親子間の上下関係、職業間の上下関係、大人と子供の支配、被支配関係、これらを排することの大切さと気持ちよさがテーマなんだろうと思う。
父にファーストネームで呼びかけてもOK。そこに、お互いの尊厳を尊重する気持ちがあれば。
父も子供たちに強圧的な態度に出る必要はない。
映画では、被害者(実は加害者)の父の、子持ちの娘への強圧的な態度が罪を作ったと匂わせる。

今の日本では、小学生くらいまでは、ほぼ両親の呼び方は「パパ」「ママ」になっているように思う。テレビでもほぼこのように呼ぶ。又これに疑問を感じる人も少ないようだ。

呼び方は、つまりどうでもよいことなのだろう。
両者間に、それぞれの立場を認める気持ちがあれば。
好き好きで。それも現代日本を表しているのだから。


# by Kinotomii | 2019-08-07 17:01 | 親子関係 | Trackback | Comments(0)

表現の自由とは? 二宮金次郎ではいけなかったのか

愛知県での「表現の不自由展」にあの少女像が展示されたということ自体、プロデューサーの選択眼、見識を疑うのに、展示に文句をつけた名古屋市長を、憲法違反と批判する県知事の非常識には唖然とする。こんな人に政治を任せて良いのか、との不安すら覚える。

次に日本美術界の重鎮が、「表現の自由への侵害」(日経新聞8月6日)と言い出すに及んで、あれが芸術? と多くの国民は思ったのではないだろうか。

テレビに映るたびに気分が悪くなるあの少女像は、芸術作品なのかという問題がある。
あれは韓国の一部の勢力が政治的利用の目的で作った小道具、プロパガンダと認識している。あれを、攻撃のターゲットであるこの日本で展示すること自体、大変場違いな感じがする。
どういう頭の使い方をすればあのようなものを展示することを思いつくのかと、むしろ不思議だ。
新聞の情報によると、あの少女は、今やアメリカのどこかの州の議会の中にまで据えられ、日本たたきの道具として、あの薄笑いで日々議員たちにエールを送る存在にまでなっているのだとか。

あるいは、こうゆう風に話題になることへのウケ狙いなのか。
だとすると、多くの影響力のある日本人が、姿の見えない誰かに簡単にノセられているわけであるが。
現在、日韓関係が危ういところである。一つ地盤にひび割れができれば、そこから地盤は割れ、崩れて行く。姿の見えない誰かにとって、願ってもないことであろう。
その意味で、プロデューサーの責任は重いと言わなければならない。

大体、「表現の自由」とは、どこまでを言うのだろうか。
何でもかんでも、表現の自由の下に発言、表現して良いものなのか。
表現するその前に、道理や他を攻撃しない慎みというか、何かがなければならないのではないだろうか。この意味で、少女像は、多くの日本人を嘆かせ居心地悪くさせている。明らかな攻撃意図の象徴であるという意味では、奔放すぎる表現力がある。

世の多くの大人たちは知っているのだろうか。
青少年の漫画の一部に、とても信じられない内容のものがあることを。
もう数年も昔、雨の通学路に落ちていた分厚い漫画本が描いていたのは、
まるでガムでも噛むように、握手でもするように、少年少女が簡単に教を外す場面だ。
そして、近所の公園で実際に中学生のような男女が、その期におよんでいる場面を見た時に、私は、「表現の自由」を口にする人々に嫌悪を感じるようになった。

少女像を陳列するなら、なぜ、二宮尊徳像を思い出せなかったか?
最近薪を背負った二宮金次郎像は、日本の学校から追い出され、居場所がなくなっている。表現の不自由という憂き目に遭っている。

二宮尊徳は
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3

https://www.huffingtonpost.jp/aport/ninomiya-kinjiro_a_23469862/子供時代も感動的だが、大人になってからの農政家としての方が本当に立派で、わが身を後回しにして農民たちのために尽くし、いくつもの村を財政的に救ったと物の本で読んだ。
今の学校には、こんな日本人がいたという教育こそが必要ではないのか。
一人の立派な人を教えることが、子供たちの不安な心にともしびを灯すに違いない。いじめも少なくなるのではないか。

数年前、知り合いのお坊様のお寺の庭に、金次郎像が仏像のように立っていた。
聞くと、学校にいらなくなったけど捨てる場所がない、ということで、貰って来た、とおっしゃった。
二宮金次郎像がこのように扱われること自体、学校教育がどこかでレールを間違えたという気がする。
本当は学校が堂々と立てるべき人だけど、お寺にあって拝んでも良いような偉人だ。



# by Kinotomii | 2019-08-07 15:57 | 雑記 | Trackback | Comments(0)

『袈裟のはなし』久馬慧忠(きゅうま えちゅう)著

「袈裟を着けることは、佛の心を身にまとうことなのです」 久馬慧忠

『袈裟のはなし』は、同じ久馬老師の仕事である『袈裟の研究』より、やさしく書いてある。
左が『袈裟の研究』、右が『袈裟のはなし』です。
c0356158_23041263.jpg

『袈裟の研究』が専門的に描かれているのに対して、『袈裟のはなし』は、一日で読めるほどの量でありながら、初心者が入っていくのに無理なく理解
できるように工夫がされている。
初心者ならこれだけ知っていれば十分、といったところで、やさしくわかりやすくまとめられている。

ここまでまとめられるというのは、久馬老師がお袈裟、絡子を大勢の方々に伝えなされた、その経験がものをいうのだろうと拝察する。どこを知りたいか、どこがわかりにくいかがわかっていらっしゃるという感じがする。
そこはかとない絡子への愛情と強い情熱が感じ取れるのである。
日本だけでなく、ヨーロッパにも毎年伝授に赴かれていたようだ。
まだ御存命の頃に御指導を受けたかった、と思われてならない。



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# by Kinotomii | 2019-08-01 23:14 | | Trackback | Comments(0)

京都市交響楽団第636回定期 指揮 高関 健

高関健氏は、「常任主席客演指揮者」という肩書をお持ちです。
これは、下野竜也氏と同じ肩書です。
どうゆうものかはよくわからないが、コンサートの最後に京都市長が、いつもの着物姿で出ていらっしゃって、
「日本を代表する指揮者の高関氏に京響を云々…」
とおっしゃったので、京響を主に責任をもって振って下さるという立場だろうか。
経歴を見ると、外国での受賞歴も華麗です。
以前大阪で一度拝聴したことがあって、生真面目な音楽という印象だった。
今回も、生真面目な正統派という感じだったのですが、印象に残ったのは、団員の方々の指揮者に向き合う態度の真剣さでした。
これは、ちょっとした音の狂いも聞き逃さない方なのかも。

曲目は、スメタナの「わが祖国」という75分の大曲です。
六つのパートに分かれているうちの第二が、中学校で習った「モルダウ」で、日本人好みの憂愁と希望を感じさせる曲。解説によると、大河の様子を音楽で具体的に描写しているということだ。
ふ~ん、そうだったのですね。

チェコも複雑な歴史を持つ国だ。この曲はそんな複雑な国の事情を体現した、チェコを代表する曲とのことでした。

それにしても、ここ10年、クラシックファンが増えているのではないのだろうか。




# by Kinotomii | 2019-07-30 18:33 | 音楽 | Trackback | Comments(0)