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カテゴリ:宗教( 106 )

初発心の菩薩

経典に、
「仏道を求めようと志を起こすけれども、智慧がまだ十分でなく時々つまづく菩薩を、初発心の菩薩という」とあります。

初発心の菩薩の八つの罪
①偉ぶる心
②易きにつく心
③宗教屋になること
④宗派のエゴ
⑤仏法を生活の道具とすること
⑥貪欲、名利という雑菌
⑦私財を蓄える
⑧教義を作る

〇在家の菩薩とは、普通一般の生活を営んでいる人で深く仏法を信じ、佛法を規範として生活に生かし、しかも衆生救済の願行を持っている人をさします。

〇菩薩の精神は「衆生のために働く」という意志であって、たとえ煩悩があろうと、迷いがあろうと、そんなものは問題になりません。

上の文章は、88才の佛教徒の方から送られてきたものです。
文章はまだまだ続くが……。
例えば、①や⑤や⑥は、心に覚えがあるような。

佛教に不信感を持ち始めていたところに、ジャストのタイミングで届いた。
このタイミングも、お釈迦様の御計らいだっただろうか。
仏法は、もれなく解決の道筋を用意している。





by Kinotomii | 2019-08-15 17:24 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

安穏な生活と禅の集い

二泊三日の禅の集いから自宅に帰ると、わが毎日の生活の何と気楽なことよ、安穏なことよと思う。

坐禅は良いとしても、80名もの集団生活に和していくことは、
鈍くなった頭と体をフル回転させなければならない。
特に、本堂にずらっと布団を敷いての就寝は、時間が来たら「おやすみなさい」の一声で全員が一斉に眠りにつく。
他の参加者の方々のきびきびした動きに加え、すぐに寝息が聞こえてくることの何と羨ましいことか。
それでも、今年は2回目だから、何かにつけ、去年よりは余裕があった。

他に合わせる、ということが修行なのだろう。
自宅に帰ると、誰に遠慮気兼ねすることもなく好きなように生活を運んでいることを自覚する。
子育ても終わり、親の介護も終わり、好きなように時間を使えることの、幸せを実感する。
この恵まれた環境を、ともすると当たり前として感謝の念を抱くこともない毎日。
少しだけでもありがたいこと、と思えるのは、やはりより厳しい環境にさらされた時だ。

今年は、岐阜県美濃加茂市にある臨済宗正眼僧堂の師家、山川宗玄老師が講師であった。
テーマは、「十牛図」。
禅に長いご縁をお持ちの方々は、すでに一度はこのテーマで青山老師の提唱を受けておられるようだ。
初めてのこちらは、何が始まるのかと思ったが、「牛」とは、「本来の自分」であり⇒更に深めると「仏性」であり、「仏」を探す過程が10の段階に分けて述べられている。
⇒結局は、この10の過程とは修行の深まりを意味し、修行はこのように展開するもの、というところのようだ。

高校時代以来の漢文のリズムが心地よかったが、漢語の難解な事!
こうやって勉強ができるのも、家族や雲水さん方を始め、数知れぬ周囲の方々のおかげです。



by Kinotomii | 2019-07-24 22:53 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

武器ではなく一冊の本を

マララ・ユスフザイは、2012年、すべての人間の尊厳と教育を受ける権利を主張する運動を批判する側の人間により、頭に弾丸を受ける。が、そこから蘇り、更に運動を活発化させ、世界中から知られるところとなる。
そして、2014年、ノーベル平和賞を受賞した。

ノーベル平和賞記念スピーチを、この度NHKの「こころの時代」で、初めて最初から最後まで聞いた。これまでは、ニュースで目にしていても、どこか遠かった。なぜなら、ニュースでは1フレーズしか私たちの耳には届かない。でもweb検索したらいくらでもあった。もっと早くに調べてみるべきだったかも、

スピーチを最後まで聞いて思った。
本当に勇気ある立派な人だ。ご両親も素晴らしい。
彼女は、アフガニスタンに近いパキスタンのスワートという土地に生まれた。閉鎖的な土地だそうだ。

マララを見ていて思い出したが、かつて、アフガニスタン人の二人の男の子に日本語を教えた経験がある。
15才と13才の彼らは、日本の少年たちより考え方が大分しっかりしていた。医者の家系で、国のおじいさんから毎週電話があり、おじいさんの数学の問題を解くのを習慣にしていた。彼らは支配者階級の、しかも男の子だったから、教育には厳しかった。又、頭脳も優秀だった。日本の大学の医学部に入って、医者になりたいと言っていたが、どうしていることか。

これはともかく、
何より悲しいのは、女性は教育など受けなくても良い、というこのあたりの因習に閉じ込められている女性たちのために行動することが、故郷の、しかも同じ宗教の人々から排斥され攻撃されたこと。
「西洋の手先」と言われ、最も理解して欲しい人々から命を狙われることは、何よりも無念だろう。今は国には住めず、イギリスのバーミンガムに住んでいるようだ。

正しいことを言う人が、自分の邪魔になると感じる人々がいる。
平等を憎み、これまでの差別的習慣が心地よくてそれを壊されることを
恐れる人々の、新しい思想を主張する人々への恐怖と焦りは大きい。また、自分が間違っていることを知っているために、都合の悪い相手を消そうとする。
だから、正当なことを言う人々を消す行動に出る。アラバマ物語に共通する。
あの物語は、今から90年前を描いていた。パキスタンは今の話だ。
時代の新旧にも、国の違い民族の別にも、宗教の違いにも関わらず、人間は心の奥底に、他と比べ、他よりも上に立ちたい、利益を得たいとする傲慢な心を、あえて言えば、誰でも持っているのではないか。
利益を得たいとは、お金のことばかりではありません。自分の感情的欲求や社会的名誉欲を自分のものとしたい利己心のことです。

だからこそ、釈尊は人間に八つの驕慢(きょうまん。きょう、は馬偏ではなく、りっしんべん)を指摘し、おごりを戒めている。
だからこそ、佛教では、他と比べない、ことを強くうたっている。

一人のこども
一人の先生
一冊の本
一本のペン
Education First
が、マララの主張する5本の柱。
悪弊から目覚められない人々も、結局は良い教育を受けられなかったことが原因の一つだから。そして、貧困も。なかなか単純ではないが。
鳥のように自由に生きて、声を上げられない人々のために、少しでも良い世界を目指して欲しい。

" Silent and wait to be killed, Or, Speak up and then to be killed .
I choose speak up"

さて、
これは奈良市内の福智院交差点にある大乗院庭園です。ちょっと目と頭を休めて一服。はるか向こうの瓦屋根は奈良ホテルです。
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お庭に出るには200円。ここまでは無料。ほん近くには、「是是鹿鹿」もある。コーヒーや御菓子を頂いて、しばしの休憩。
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by Kinotomii | 2019-07-14 15:00 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

仏国山瑞応寺 楢崎通元


この僧堂は、「行持綿密」で聞こえ、厳しいことで有名だったそうです。

故29
世大玄一光(楢崎一光)大和尚様を経て、30世大慈通元(楢崎通元)老師が堂頭(住職)を務められる。
1997年5月の晋山式より23年を数え、今年2019年5月9日、退任式を終えられ無事東堂とおなりになった。93歳。

次の写真は昨年1月のもの。
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92歳の昨年、頭脳明晰。カクシャクとしておられた。ちょっと御足を傷めて支えを持っておられたが、後ではご自分の足で歩かれた。
小柄ながら、しっかりと筋の通った雰囲気をかもしておられた。

「首座法戦式」(しゅそほっせんしき)という禅宗では重要な行持に参加させていただいたが、前夜も当日も責任を果たされた。

寅年だそうで、こちらも寅年だというと、急に心を開いて下されました。
10歳違いやな」とおっしゃるので、
「え? 二回り違いますけど」(正直なんで)
「そんなことはどうでもええ!」

(ま、、負けず嫌いだこと…)(心内語)

このような老僧のシャキっとしたお姿を真近に拝見できることが、大変嬉しい。
橋本恵光大和尚様や、御両親様、先代御住職であられる一光大和尚様、御姉上様など、沢山のお写真に囲まれて悠々と暮らしておられた。

笑われたお顔を写真に収めようとしたが、その瞬間に、目にもとまらぬ速さで口を真一文字に結ばれた。

ー口を開けた写真なぞ、撮られんー

昨年訪問した時のこれは、お見送りに出て下さった珍しくも普段の表情でのお顔。

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これも笑顔であったのに、シャッターと同時に唇を結び…。

大正生まれの寅年には感服。



楢崎通元老師は、2019年(令和元年)5月9日、

堂頭のお役から退任され、瑞応寺の東堂となられました。が、熊本県菊池市の聖護寺の住職は続けられる。



by Kinotomii | 2019-05-10 20:58 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

老いても老いず 死んでも死なず  対談 内山興正 青山俊董

『栢樹』1998年4月号 No,175 から。

内山興正老師(対談当時73歳)と青山俊董老師(対談当時51歳)の対談を、
『栢樹』1998年4月号に 「追悼 内山興正老師」として抄録されたものの中から、更に印象深いお言葉を取り上げた。
内山老師は、宇治木幡にご閑棲になられていたところ、平成10年(1998年)3月13日、御遷化なされた。数え86歳。3月13日は、旧暦の2月15日に当たるそうである。

天地一杯の心 P18

内山:<天地一杯というのは……私自身も天地一杯からの空気を呼吸し、天地一杯からの水を飲み、天地一杯からの食物を食べ、天地一杯からの命を生きていて、天地一杯からの力がはたらいているのです。(略)
 人間の思いが湧いてくるのも天地一杯からです。(略)生とか死とか、自分とか他人とか、自分と世界とか、有るとかないとか、すべて二つに分かれるのは人間の思いが分別するんです。ところが今云うのは、そういう分別以上の、実際に働いている力、これを「天地一杯」という表現をしているわけです。>

「思い以上の力」P19

内山:<寝ている時も、ご飯を食べている時も、喋っているときも、ものを考えている時も、思い以上のところで呼吸している。いや、自分その者さえも、実は私の思いと関係なしに浮かんでくる。天地一杯から浮かんでくるんですよ。(略)
 結局、生きる力も死ぬ力も、私の思い以上の力です>

青山:生きるための努力を何もせずに、寝ぼけていてもちゃんと心臓がはたらいているのは、私の思い以上のところで生かしてくれている天地一杯のいのちのはたらきによって生かされている証拠なんですね>

「思い」は頭の分泌物  P22

内山:結局、思いと言うのは、頭の分泌物なんですね。唾液腺から唾液が分泌してくる、胃袋から胃酸が分泌してくる、臓器からホルモンが分泌してくる。そういう分泌物ですね。単なる分泌物だということを知らないから、胃酸過多じゃないけど、思い過多で、思いに振り回されて、みんな行動するのだ>


ブログ主:「思い」は単なる頭の分泌物だ、という理解の仕方が画期的に思われ、多くの人々が納得し、救われるんじゃなかろうか。頭だけが大したことのように思い違いしているけど、本当は、私たち人間も天地一杯から出てきて、天地一杯の力で生かされている地球上の多くの生物の一つに過ぎない。自分の計らいで生きているかのように、それが大したことのように思っているけど、本当は、自分の思い以上のところで生かされて生きているだけなんだ、と。
これを英語では「Non thinking」と表現する。最初にこの英訳をした人は誰だろうか。


by Kinotomii | 2019-04-24 15:28 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

普通に自分の足で歩けることが、神業のように見えました。

愛知専門尼僧堂での4月の日曜参禅会は21日に行われた。
参禅者のどなたもが、青山堂長の御病状が気になっておられたはずだ。
そのせいか、普段より多い70名ほど(数えたわけではない)の参加者であった。

正直、お姿を拝することができようとは半分諦めていたところがあったが、
(というのは、もう少し時間がかかると思っていた)
青山堂長は、普通のごとく手を引かれて本堂においでになった。
18日間の入院で少し痩せられていたが、お声も表情もすっかり以前のままで、よく笑われ、お声もよく通った。
青山老師のお声には響きがあって、普段の講話もはっきりとよく通る。
それで、何をお話されても説得力がある。
そして、講話の内容も、病を経験すればこその気づきの色々で、それをすべて佛法と結び付けて話された(!)

<(周りの人々が)普通に、当たり前に目が覚め、ご飯を食べたり自分の足で歩けることが神業のように見えました>
<知識としては誰でも知っているが、頭でなく、体で気づかせてもらいました。「通身手眼」とはこのこと。身体すべてが手であり眼であることが、観念ではなく、事実としてわが身で経験した。頭の中で理解できても、実際に実践することはほとんどできないものです。どんなことばも体を通さないと意味がない>
<病気を財産に南無病気大菩薩です。病によって道心はおこり候 と日蓮上人もおっしゃっている。>
<病気であってもなくても、すべては、天地宇宙の真理の姿です。苦しいことがあろうと、喜びに打ち震えるほどのことも、すべては春夏秋冬の一枚の画に描かれた景色の一つである。一切合切すべて良し。すべて結構。(光々無礙 というそうです。余語翆巌老師 元大雄山 山主)⇒凡夫はなかなかこうは思えません>

青山老師のお話には、澤木興道老師、内山興正老師、余語翆巌老師のお話が多い。とにもかくにも、お帰り下されて良かった。

午後の坐禅の時間、ふと気がつくと坐っておられた。


by Kinotomii | 2019-04-22 17:22 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

平成31年4月16日 友引 絡子完成

ようやく、完成。
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本当は昨日のはずだったが、最後の最後、ぼんやりミスで、田相の上下を確認せず、反対に付けていた。
かけてみたら、何となくヘンでした。

ほどいて、今日竿を付け替えて完成。今日は友引だから、却ってよかったかも。
お絡子仲間が一人でも増えていくと、嬉しいのだけれど。
そして、もしかすると今日、御病気から少しでも回復されていることを、ただ祈るのみ。

by Kinotomii | 2019-04-16 18:06 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

請願を持ってお絡子を縫う


大切な方の御病気平癒を願い、4枚目のお絡子を縫い始めたのは3月の末のこと。
これまですでに3枚縫っているので、複雑な型紙を見ても理解できるのが嬉しい。
ヘラで型を取り、ハサミを入れて衣身(えしん:田相の部分)から縫い始める。       ↓

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却刺(きゃくし)といって、一針ずつ射してゆく縫い方だから、時間はかかる。
10枚を繋いだ状態。裏側。↓

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田相が出来上がり、それを「縁」(えん)の中に収め、「縁」を仮縫いした状態の表側。見てわかる通り、縁は、上側の縁、下側の縁で左右の縁を押える始末をする。       ↓

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裏側。裏は、左右の縁を、上下の縁の上に重ねて
角を作る。(始末する)↓

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この裏地は、絹でないといけないそうだ。
後で、しかるべき師の方から点浄していただく時、滲まないように。
ポリエステルは滲むのだそうだ。

点浄とは、新袈裟に朱墨で清浄印を記すこと。わかりやすく言うと、仏具としての資格をお坊様に与えて頂く。それを塔(か)ける、身につける方に相応しい文字や絵を書いていただくことだ。

さて、今日、4月9日、縁の取り付けと四隅の「助牢」の取り付けが終わる。↓
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右下だけ助牢のしつけを残している。後は、「まねき」に竿を(左側にある棒状のもの)取り付け、これを首から塔けられるように田相に取り付けると完成。

縫いながら老師の御病気の快復を願い、その思いをはるかなご老師に送ることが、最初の自分にとって必要な修行。


by Kinotomii | 2019-04-09 15:31 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

「鼻息微通」 普勧坐禅儀

調息は、
「正法眼蔵 坐禅儀」⇒「息は鼻より通ずべし」
「普勧坐禅儀」⇒「鼻息微通」
「弁道法」⇒「鼻の息は通ずるに任せ喘がず声せず、長からず短からず。緩まず、急(ひきしま)らざれ」
 
 とあるそうです。
「弁道法」に至って、詳しくご教授されているわけですが、「鼻息微通」を読んだときに、現代人は現代の漢字の字義によって「鼻からの息はかすかに通じるようにする」と誤解するに違いないと思うので、橋本老師は、「微」の字について、今とは違う当時の字義を正確に解説しておられる。

p14
<微 をカスカという読み方で、息がぼけた状態になることは禁物です>
p13
<微 の本義は、説文(註:せつもん と読む。説文解字のこと。中国最古の字書)に「隠れ行くなり」と注し、人目に触れないよう道中をするには十分に心配りが入るように、鼻の息を油断なく正念を守る出入をさせ、声を出したり、はずんだり、いきむ息などを避け、また浅い息、気の抜けた締まりのない放漫な息遣いにならないよう、呼吸すること。これが、隠れ行く息、通の息であります。>
<微字を常識判断で微細の意味に解釈し、カスカにと読むことが一般に広がったのですが、カスカニという意味を持ったビは、元々行にんべんのないビであったのを、時代とともに消えて無くなり、微の字で代用するようになった。ここから、微 をも、微細、カスカニ の意味に解するようになったといういきさつがある……云々>

ですから、「鼻息微通」は、かすかに、息をしているかいないかくらいの息の仕方ではないことがわかります。「微(くわしく)通ず」の方が適切であり、「精微」の意味と察せられる、とp14にある。

自分なりにこれを噛み砕いてみると、坐禅中の呼吸は、はずんだり、いきんだりは勿論のこと、かすかなぼやけたような浅い息をするのでもない。正念の入った、充実した息遣いをしなければならないということ。ですから、やはり、深く丹田に届くような息を集中して行うのでしょう。

 このころの書籍は現代から見ると古典なので、文字や言葉の意味は現代とは違うことが多々ある。学校時代語彙史を専門としたので、このように、時代と共に意味が変遷する語の分析と意味の違いを検討することがとても好きです。

それにしても、橋本恵光老師の(書かれたのは、宝慶寺の御住職の時)、学者のような教養(?)と丹念さには参った、と言いたくなった。この本は、この後も、字義を詳しく掘り下げて道元禅師のおっしゃりたかったことを正確に拾い上げて行く作業が続けられる。
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by Kinotomii | 2019-04-06 20:07 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

音楽サナトロジスト 祈りの竪琴 と坐禅の関係

キャロル・サックさんは、アメリカ人宣教師であり、「音楽サナトロジスト」である。
日本に来て35年余り。
主に、東京山谷地区で活動しておられる。
この地区のホスピスや、家のない人、行き場のない人々の在宅ケア施設を回って、竪琴によって人々の魂の救済に努めておられる。

「こころの時代・祈りの竪琴」の番組の中では、「きぼうの家」で死を待つ人々への癒しを、竪琴の音によって静かに行っておられた。
病人は、初め目を開けて天井を見ておられたが、曲が終わるころには、静かな眠りに入られた。

これは、Ryra Precaria (リラ プレカリア=祈りの竪琴)と言い、ラテン語から来ているそうである。
病人の呼吸のペース、特に吐く息に合わせて竪琴を奏でることにより、魂の救済がなされる。
(吸う息は肉体的作業だが、息を吐くことには、ある程度のエネルギーが要るそうである。死ぬと、体が勝手に肺に息を入れる。しかし、吐くことはしない。死ぬことを はかない と言うが、ここから来ていると聞いたことがある)

興味深いと思ったのは、「魂」を表すヘブライ語とギリシャ語が、共に、「息」「呼吸」と同じ意味である、とおっしゃった時である。

「人間の魂と呼吸には、何かの共通点があると私は思います。魂は目で見えないものですが、目で見える呼吸を通して触れることができる。こんな形で魂に寄り添えるならすばらしい」
と、キャロル・サックさんがおっしゃった時、ふと坐禅のことが頭に浮かんだ。
坐禅も究極的には「呼吸」だ。特に、吐く息を大切にする。呼吸の調和により、魂の深い無意識の層にまで到達できるらしい。

サックさんの言葉に共感と不思議を覚える。キリスト教と云い仏教と云っても、根本のところは同じだ。
この大宇宙はすべてが繋がっており、形や表現する言葉は違っても、究極的には真理は一つ、と思わせる場面だった。



by Kinotomii | 2019-04-05 05:53 | 宗教 | Trackback | Comments(0)