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京都市交響楽団第601回定期 サッシャ・ゲッツエルとワルターアウアー

素晴らしかった!
特に弦が良かった。
指揮者が音を引き出していると思う。
サッシャ・ゲッツエルは、ウイーン・フィルのヴァイオリン奏者の後、指揮者に転身した、今まさにあぶらが乗り切っている指揮者と見えた。
曲目も、
ニコライ:歌劇「ウインザー城の陽気な女房たち」
モーツアルト:「フルート協奏曲第一番」
バルトーク:バレエ組曲「中国の不思議な役人」
ラヴェル:ラ・ヴァルス
と、初めて聞く曲ながら、大変ドラマ性のある、元気の良い曲ばかり。
こういうことは素人だから言えるので、素直に感動した。
指揮者の熱意と奏者の集中力が、2階のR席までゴウゴウと上がってきた。
ヴァイオリン奏者だったから特にこのような曲(弦を中心とするような)を選ばれた結果なのか、弦の透明性が際立っていて、ふと、昔、ミシガン大学の公会堂であるヒル・オーディトリウムでベルリンフィルを聴いた時に受けた感動を思い出した。
あれほど透き通った音は、2001年のそれまでもそれ以後も聴いたことがなかったが、昨夜の京響の弦はあの時のクラウディオ・アバドーのコンダクトを思わせた。
ベルリンフィルでなくても、こんな音が出るんだ、と思った。(アバドーは、2014年1月に永遠の眠りについた)

フルートのワルター・アウアーは、ウイーン・フィルのソロフルート奏者。
フルートは繊細だとのイメージがあるが、この人の手にかかると、指と唇にかかると、まるで笛の先に一羽の鳥がいて、わが声を周囲に自慢しているかのような活発な響きとなってホール中を飛び回った。
楽譜にしたがって吹いているのではなく、吹きながらみずから楽譜を作成しているかのような、聴衆までも音の中に巻き込んでいくような、職人芸、というと失礼かもしれないが、ご本人もフルートと一つになって楽しんでいらっしゃった。
驚いたのは、アンコールの拍手に応えて弾いた曲の中で、1本のフルートで、伴奏音を出しながらメロディーも完璧にこなすという技術を披露したとき。
川端成道のヴァイオリンを思い出した。
川端のヴァイオリンが、メロディーを弾きながら弦を押さえた指でピアノ音のような伴奏をして見せた、あの一つ抜きんでた演奏を。
このワルター・アウアーも、やはり一つも二つも抜きんでているからこそ、ソロ奏者として、しかもウイーン・フィルで、地位を獲得できるのだろうか。
自分には全く関係のない世界であるが、一つ深いところを知ったようなありがたいような感動を頂いた。

こうして優秀な外国の音楽家を招へいできる京響の力は、常任指揮者や、
そのほか、ゼネラルマネージャーや、見えにくいが、舞台上で楽団員の椅子を並べたり、一人一人の音の確認を取ったりしている方々の隠れた貢献が寄与していると思われる。
Rの前の方の席で見下ろしながら、色々なことを思った。

昨夜はコンサートマスターが泉原隆志さんだった。
公式オフィシャルサイトを見ると、大変実力のある方と判明。英語が話せれば外国の奏者は安心するだろうし、いつもニコニコして団員への配慮を欠かさない風に見える。
こういう若い芸術家たちが伸び伸びと力を発揮し、どんどん活躍する日本の芸術環境であってほしい。

「中国の不思議な役人」は不思議な曲だった。
メロディーがアジア的というか、目まぐるしく変化して、それが聴いていて心地よい。
最初にイングリッシュホルンの独奏が入った。これが女性奏者である。
濁りがなく美しかった。
すぐお名前を確認する。高山郁子という人である。これまで聴いたことがなかったような気がする。
イングリシュホルンて、ドイツ語の番組で出てきた。
あの大きい楽器を女性が吹く。

この曲は、ほぼすべての楽器が登場した。
シンバルを含む打楽器も皆さん集中して素晴らしかったし、金管、木管も独奏が入って、すべての楽器の美しさを競うような曲だったな~。
こんな曲は指揮者としても難しいのではなかろうか。
それにしても、いつも思う。
こんなチケット額で、こんなに良い気持ちにさせてもらえる。
音楽ってありがたい。








by Kinotomii | 2016-05-22 11:08 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

宝暦の木曽三川治水工事と西田喜兵衛

西田喜兵衛は、三重県多度村(今の桑名市)の村名主であった。
薩摩義士の顕彰はこの人なしでは語れない。
代々続いた豪農で、喜兵衛は十代目に当たる。

徳川の世が終わった明治14年、喜兵衛は約140年前に行われた木曽川、長良川、揖斐川の治水工事に当たった薩摩藩の仕事の掘り起しに動き出す。
代々家に伝えられた「時期が来たらこれを世に公にせよ」との資料の数々と、「薩摩の御恩忘るべからず」との言い伝えがあったからである。
計算すると、この時37歳であったようだ。

初めは、工事の義没者の供養をしたい、との気持ちだったようだ。
ところが、法要を要請した京都の真宗大谷派法主の出向に冥加金1000円を要求され、ここで第一の断念があった。

1000円とは、今の価値でどれくらいだろうか。
明治時代、奈良興福寺の五重塔が500円で売りに出されたが、誰も買い手がなく今に残っている、とは、奈良観光センターで観光案内をしていた時に観光客によく紹介したエピソードである。

法主の出向に五重塔2棟分!

ここに至るまでにも、個人の出向願いには応じられない、今で言えば県知事の要請でなければ応じられないと、真宗本山が要求してきて、慣れないお偉方参りをするなど、難しい手続きを踏んでいる。
当時の三重県知事が鹿児島出身だったことから、こちらはクリアできたが、お金はどうにもならなかったわけである。

ともかく、私たち6人は、海蔵寺を辞して苦労して着いた治水神社であった。
着いてみて驚いた。
治水神社は、工事の総責任者であった平田靭負が祭神である。
遊歩道の中に、明治33年に建てられた巨岩で「宝暦治水の碑」が建っていた。
これが西田喜兵衛が中心となり、大垣、桑名、多度村などの海津郡、名古屋方面の多くの方々の賛助と協力を得て、3度の挫折の後にようやく完成を見た碑である。

この建碑を端緒として、顕彰運動が盛んになり、鹿児島の方も動き出した経緯が、坂口達夫氏の『宝暦治水・薩摩義士』に詳しく書かれている。
この地方の方々は、今でも「薩摩の方に足を向けて寝るべからず」とおっしゃるそうである。
50年前、ビジネスでこの地を訪れたことのある鹿児島の先輩が、営業先の会社の人から
「薩摩様ですか!」
と言われて、薩摩義士のことを知らなかった当時、驚くとともに感動し、以来、その会社と良好な関係を築いてきた、とおっしゃった。

建碑が成った明治33年、西田喜兵衛は56歳であったそうだ。
建碑に要した費用は、総額3,144円。寄付、雑収入合わせて2,456円をまかない、不足分の688円は、西田個人の寄付であったそうだ。

その後、西田家十代の喜兵衛は81歳をもって逝去。薩摩義士の発掘、建碑活動、『宝暦治水誌』の出版など、義士顕彰に命をかけた生涯であったそうだ。
現在十三代の喜大氏に引き継がれているそうで、こうして代が続くということのすばらしさを思う。

現在、関西鹿児島県人会では、春季と秋季の2回、観音堂の大祭参拝のバスを出している。
ここには、末裔であられる平田靭久氏と佐藤一志氏のお二方が必ず御同道される。

佐藤氏は川堤で凧を揚げて義士への奉納とされ、平田氏は、紙芝居で薩摩義士の存在を広く世に広げたいと活動を続けておられる。
ご立派なことである。






by Kinotomii | 2016-05-14 22:39 | 旅日記 | Trackback | Comments(0)

宝暦の木曽三川治水工事と薩摩義士②


2011年4月。
中学校の同窓会女子会のメンバーは、毎年4月に、それぞれのメンバーの在地を1年交代で花見をすることにしていた。
この年、桑名に住むメンバーのIさんの番に当たっていた。

「なばなの里」でたっぷりと花々を楽しんだ翌日、
さて、今日はどこに行こうか、と全員でブラブラ町中の散歩をしていたら、道を隔てた向かいに「薩摩義士の寺」という立て看板が目に入った。
「なんでこんなところに薩摩の字が?」
これが、濃尾平野の水害治水工事で犠牲となった、(実際には抗議の割腹自殺と伝えられる)藩士24名が眠る、曹洞宗海蔵寺であった。
http://www.kaizouji.net/

全員で案内を乞うと、ご住職はお留守で、奥様が歓待の上説明をしてくださった。
今から250年余前の治水工事に働いた薩摩義士の話は、あまりに衝撃的だった。
故郷でこの話を聞いたこともなかったし、学校で教えてもらった記憶もない。
鹿児島ではこの話は長くタブーであったそうだ。

幕府から押し付けられた木曽三川の治水工事には莫大な金がかかり(40万両という)、それでなくとも借金が積み重なっていた薩摩藩は、大阪の商人からも借金したが(ほとんどが踏み倒しとなった)地元の藩士・領民の税金を上げ、給金を半額にし、奄美大島、喜界島、徳之島からは砂糖を厳しく取り立てなどして金策をしたが、結果、薩摩藩内の経済は青息吐息の苦しみとなった。
これこそ、薩摩藩の弱体化を謀る徳川幕府の狙うところであった。

このため、工事に駆り出された家には責任はないにも関わらず、あまりの経済的苦悶から、隣近所周辺から恨まれる事態となった。
遠い美濃の国まで厳しい労働に行かねばならないこと、国許の家族が白い目で見られることの二重の苦しみである。
そのため、工事に関係した家は表立って墓も建てられず、150年余、ずっと周辺に秘密にしてきた経緯があった。

ようやく顕彰の緒口に立ったのが明治時代、三重県多度村(現在は桑名市・長島町に併合されている)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%BA%A6%E7%94%BAの豪農、西田喜兵衛氏の献身的な活動に始まる。
西田家には、代々祖先からの言い伝えで、「他日これを世に公表せよ」との古文書が残されてきたが、明治九年の農民一揆で、惜しくも灰燼に帰したという。
西田喜兵衛は、「薩摩の御恩忘るべからず」との父祖の言い伝えを基に、明治14年、真相解明に乗り出す。
ところが、三重県、岐阜県の方々の思いに比べ、鹿児島方はなかなか積極的に動こうとはせず、苦労の連続だったという。
周辺の無理解のため精神的に追い詰められ、一度は活動を断念している。
詳しくは、多くの本が出ているし、杉本苑子の『孤愁の岸』参照。
『宝暦治水・薩摩義士』坂口達夫 春苑堂出版 には、宝暦治水の際の薩摩義士の顕彰活動が始まった経緯や苦労、鹿児島での実態、末裔の方々の歩みと現在など、網羅されている。

海蔵寺は、次々に「腰の物にて怪我いたし相果て」した犠牲者を、最後に受け入れた寺であるという。
当時の第十二世、雲峰珍龍大和尚は、「死者を弔うのは僧侶のつとめ」と手厚く埋葬して戒名を過去帳に残した。(海蔵寺説明)
当初14基であったが、現在は他から移された御霊も入れ、平田靫負の石塔を中心に24基になっている。
薩摩方の遺体の供養を行えば幕府に睨まれるため、いくつかのお寺は受け入れを拒否したため、最後の曹洞宗海蔵寺が供養も行ったものと言う。

ちなみに、古文書によれば、名前のわかっている犠牲者84名は、
切腹自害者 51名、病死 33名、幕府方 2名、人柱 1名、だという。

お寺の説明に熱い気持ちになった私たちは、千本松原の治水神社を訪れずにはいられなくなった。


by Kinotomii | 2016-05-01 09:09 | 旅日記 | Trackback | Comments(0)