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第九シンフォニーの夕べ アンドリス・ポーガ

2016年12月29日。
大フィルとアンドリス・ポーガというラトビア出身の指揮者による第九の夕べを聴きに。
若い外国の指揮者だから大変期待していた。
ヨーロッパで名だたる管弦楽団と共演していたし、受賞歴もあった。
大フィルも昔からのファンだし。

会場はほぼ満席です。チラチラ空席があるのは、事情で欠席せざるを得なくなった方たちだろうな、と思いつつ、昔は入口付近で「チケット買います」と声を上げる一団がいたな、と思い出す。
彼らは、「買います」というが、実は「売ります」のが目的で、違法だそうだが、あれはあれで便利だったな、とか思う。
今ではネットで人気チケットを数倍で売るサイトがあり、昔のダフ屋とかいう人たちよりタチが悪いと思う。

さて、2016年末の大フィルの第九は、なかなか書く気になれなかった。
案外! だったのである。
合唱が始まる頃にやっとエンジンがかかったかな、と思ったが…。
団員の人数は、数えたら130人を超えていた。
でも人によっては、良かった、感動した、と思われた方々も多かったに違いない。

毎年思うのだけど、最後に「蛍の光」を合唱団が歌って下さいます。
会場は黙って聴くのみ。

「蛍の光」はありがたく拝聴するものではないと思う。
会場の全員で共に歌うものだと思う。
近くで小さく歌っておられるご婦人があり、私も真似して歌った。
この歌は、自然に口から出るものなのだから。
指揮者もこの辺に気を利かせてほしい。

ウイーンフィルが毎年ニューイヤーコンサートを行い、これが世界中に配信されるが、テレビでしか見たことはないが、最後に例年「ラデツキー行進曲」が演奏され、
拍手の共演が会場を巻き込んで行われる。

その年の指揮者が(世界に知られた名指揮者ばかり)、会場のお客さんの拍手をも指揮し、拍手の強弱、奏、止、を思いのままに指揮する。
今年は、デウダメルという35歳の若きベネズエラ出身の天才指揮者がつとめた。
表情豊かに自在に指揮し、会場も楽しく盛り上がって舞台と会場は一つになった。
共に年の最後を、また最初を過ごしているという共感が、コンサートへの満足不満足にも影響するのではないだろうか。

去年のケン・シェと京都バッハ・アカデミー合唱団が良かっただけに、消化不良の一夜だったかも。
今年もケン・シェは関西のどこかの会場で第九を振っていたはず。
昨年のことがあるから、再演希望が多かったのかもしれないと思う。



by Kinotomii | 2016-12-31 19:33 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

半跏趺坐(はんかふざ)小倉玄照『新普勧坐禅儀講話』より

「半跏趺坐」は、
『普勧坐禅儀』によると、その組み方を
< ただ左の足を以って右の腿の上を圧すなり。>
と説明しています。
P132
<この場合、下側になる右足を坐蒲の方へ深く引き寄せるようにしますと、左の膝頭が床面について、鼎のごとく三点が接地して背骨を端直に支える形になります。結跏趺坐の場合と同じように足の組み替えは許されるわけで、右の足を上にする半跏趺坐もあります>

「足の組み替えが許される」という部分がありがたい。
左を上にしても右を上にしても、どちらでも良いということだから。
叉、結跏趺坐と半跏趺坐に、坐法としての優劣はない。
しかし、半跏趺坐には何となくマイナーなイメージがあるのも事実。

小倉師は、両手で印を結んだ時の左右の掌の上下も、左右どちらを下にしても良いのではなかろうか、と述べておられる。
伝えられるのは、まず、右の掌を上に向けて組んだ足の上に置き、次に左手を右手に重ねる、ということになっている。
しかし、半跏趺坐の場合、左手を下にした方が腕が楽に感じる。
「右掌を下に」というところに何か理由があるのだろうか、としばしば考える。
脚の坐法についても、右、左、どちらを上下に組んでも良いなら、法界定印の手も左右で上下が臨機応変に許されるのだろうか。
右利き、左利きの違いはあるのだろうか。
身体をめぐる気の経絡の関係だろうか……、と色々考えるが、たまに楽な方法でやることにしている。

小倉師は、しかし、坐禅の指導者には、「最初から結跏趺坐を指導する必要がある」と述べておられる。
「結跏趺坐は難しいので、とりあえず半跏趺坐で、とする指導は誤りです」と。
現代人は姿勢が悪く、身体が硬いのでなかなか坐禅の形が組めない。しかし、曲がりなりにでも結跏の形を組ませることが大切だと。
この場合、「経絡体操」を推奨しておられ、身体を柔軟にする一つの方法として、
まず、上向きに寝そべって、片足を曲げ、両手で足首を持ち、グイグイと顔の方に近づける運動をする。もちろん、もう一方の片足はまっすぐ伸ばしたままに力を込めて足首を引っ張る。

この運動は、腿の裏側の筋を伸ばすのに良い。
藤岡喜愛著、『イメージその全体像を考える』(NHKブックス)に付せられた「経絡体操」が参考になるとのこと。







by Kinotomii | 2016-12-25 17:21 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

結跏趺坐(けっかふざ) 小倉玄照

宇治の残りの紅葉
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結跏趺坐(けっかふざ)

とは、坐禅の足の正式な組み方です。

P124に、小倉老師は、坐法も理屈にあった説明をしておられる。

<足の組み方がきちんと法にかなっていて初めて坐禅となるのです。このごろ背骨さえまっすぐに保持されておれば、脚の組み方などに目くじら立てる必要はあるまいという人が存外あって、椅子坐禅などを提唱する向きがあります。あまりに姿勢の悪くなった現代人を見ていますと、ある種の健康法としてそれが効果を発揮するだろうということはわかります。しかし、和式の正座を正伝の坐禅というにはいささかこだわりが残るように、脚を組むことをしないでそれを坐禅と呼ぶのにはかなり抵抗を覚えます。>

<正伝の坐禅の坐法は、『普勧坐禅儀』に示されている結跏趺坐と半跏趺坐に限られていると考えなければなりません。二つの坐法に優劣はありません。少なくとも、『普勧坐禅儀』の文面上はそのように読み取れます。>

これは、少なからぬ驚き。

坐法は、結跏趺坐と半跏趺坐を正伝とし、二つの坐法に優劣はない、というところ。
半跏趺坐しかできない、と弱気であったが、結跏趺坐との優劣はないとなれば、これから堂々と行おう。

『普勧坐禅儀』に述べられている結跏趺坐の組み方は、

<まず、右の足をもって左の腿の上に安んじ、左の足を右の腿の上に安んず>
つまり、両足を結ぶ格好になります。

脚の長いインド人は、この方が安定し楽だったのかもしれないと想像する。
しかし、日本人の場合、特に足の短い女性の場合、これは至難の業となります。
無理はしないでおこう。
半跏趺坐で良いというのだから。特に女性の場合は。

『正法眼蔵』には、さらにくわしく、
<あしのさき、おのおのももとひとしくすべし。参差(しんし)なることをえざれ>とあるそうだ。
これは、両足共にしっかりと腿の上に乗せよ、という意味。しかし、脚が長すぎて、脚指先が腿より外に突き出しては、これもようないということか。

たまに、チラと見ると、あぐらを組んでいる人がある。
これは違う。
坐法を守ってなるべく正しく組むことが正しい坐禅の初歩。
「でもできないんだもん」という向きもありましょう。

そのために、小倉老師は、身体を柔らかくする秘伝を授けておられる。
簡単で気持ちが良い。次回のどこかで書くことにしよう。

今日、興聖寺の坐禅では、毎日の精勤の効果か、若いころよりはるかに楽に坐禅ができた。
終了後、お世話になった前々監寺様のお墓の作務。作務までが坐禅と心得る。
宇治はまだ残りの紅葉が美しかった。
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by Kinotomii | 2016-12-18 22:55 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

小倉玄照 『新普勧坐禅儀講話』② 

<いよいよ坐らなければなりません>

普観坐禅儀 の本論のことを「正宗分(しょうしゅうぶん)」とある。
ここで坐禅の本質をほぼ言い表しているように思うので、自分の頭の整理のために書いてみようと思う。
文章も美しい。

通訓によると、…ちなみに通訓とは…これは元々は漢文だから、翻訳解釈した人物と時代によって意味が異なる部分がある。この本での通訓とは、永平寺僧堂で毎夜坐中に読誦されている訓のことです。

「それ参禅は、静室宜しく、飲食(おんじき)節あり。諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思はず、是非を管することなかれ。心意識の運転を停(や)め、念想感の測量を止めて、作仏を図ることなけれ、あに坐臥に拘はらんや」

小倉老師の「私訓」のほうがわかりやすい。

<さて参禅の方法であるが、まず静かなところがよろしい。飲食も節度がなければまずい。さまざまな関りをすべて捨て、あれこれなさねばならぬこともとりあえずやめて、善悪も考えず、是非にこだわらないようにすることである。心のはたらきをやめ、さまざまな執着からのがれようとする思いも捨て、仏になろうと考えてもならぬ、が、それはただ単に坐っていることともわけが異なるのである。>

昨夜は坐りながら記憶が途切れ、頭がコックリを始めた。
警策が欲しい、と思いつつ、法界定印を結んだ両指の先がほわっと離れていくのがわかった。
ちなみに、両親指の先は、間に紙一枚を挟んだほどのデリケートな接触を常時保ように指導される。
これは、常に集中が要求されることでもある。
一人坐っていて形が乱れ、どうしようもなくなったら即やめる方が良いと判断した。
こんなことは今まであまりなかったが、よほど疲れていたと見える。
即坐禅を止めた。

昔先輩から聞いたことだが、初心の参禅者は、指導者のいないところで一人で坐禅をしてはならぬ。
たまにおかしくなる人がいる、と。

坐禅は、<ただ坐ることとも異なる>と本論でちゃんと述べられているように、くどくど言われるだけのことがあるのだろうと思う。
坐る形も詳しく述べられていて、決まった型を重要視するのにも意味があるのだと思う。
何かあるのだろうな、と思うものの、あまりに高邁な思想が控えているため、これ以上は考える気にもなれないし、その必要もない。
何しろ、「考えるな」と最初に断りを入れてあるのだから。




by Kinotomii | 2016-12-15 23:00 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

21世紀の第九 2016年12月

次男の嫁さんは音楽好きである。
私たち夫婦も、とりあえずコンサートが手軽な趣味である。
そこで、一昨年から、次男夫婦と共に年末に第九を聴くことを行事にしている。
一昨年はフェスティバルホールで、大フィルで、コバケンの指揮だった。
あまりコンサートなど興味のなかった次男が、
「良かった、良かった」を連発し、すっかりクラシックのファンになった面持だった。
愛する妻と一緒だから良かったのだろうな。

昨年は、シンフォニーホールのセンチュリー交響楽団を選んだ。
ネットでチケットを取る関係上、選ぶのは私の役割となっている。
今回のは、6000円とそこそこの値段である上に、
指揮が、カナダ人のケン・シェという若い人だったからである。
ケン・シェはカナダ生まれの35歳ですか。
バンクーバーメトロポリタンオーケストラの主席指揮者。
この若さで数々の受賞歴がある。

この曲は90分あるのだから、やはりお年寄りの指揮では、聞いているこちらが指揮者をいたわりの気持ちで見てしまうという欠点がある。
ケン・シェも、佳境に入るころには汗びっしょりになり、体中から湯気が出そうだった。
前から5列目という恵まれた席から、まるで漁師のように力強いケン・シェの後ろ姿が見えた。

昔、

朝比奈隆

という、押しも押されもせぬ人気実力共に備えた指揮者がいらっしゃった。
彼は、確か第九を得意とされていて、私が最後に聴いた1994年、フェスティバルホールでのこと、すでに80歳を越えていらしたと思うが、第九だけは、今でも緊張感が蘇るほど素晴らしかった!
ですから、年齢に関係なく、独自の第九を指揮者は作れるのでしょうね…。

前言撤回。

さて、今回特に良かったと思ったのは、、「京都バッハアカデミー合唱団」の合唱である。
100名の団員が後ろに並ぶのは同じであるが、指揮者の指先によく反応し、全く美しかった。
ケン・シェは指揮棒を用いず、素手で指揮したのだが、←訂正! 素手に見えたけど小さな指揮棒を持っていらっしゃったと思われる。←訂正:やはり素手だったと思われる。(2018年10月)

バッハアカデミー合唱団は、よく訓練されているというのか、声が、ハーモニーが澄んでいた。これまで聴いた中では一番かも。
第九はやはり合唱が主役だなぁ。
もちろん、独唱のバリトン、ソプラノ、アルト、テノールも、聴いていて全く不安がなく、堂々とした歌いぶりだった。

終わって外に出るとまだ明るかったので、4人で梅田まで歩いた。
息子夫婦とこうして同じ趣味を楽しみ、お互いのことを話し、ビルの中の紅茶専門店でゆっくりと紅茶を選ぶ時間のなんと幸せなことだろうか。
そして、最後は広々とした中華料理店で心置きなく食事を楽しんだ。
ありがたいことだ。
こうやって、義父母に付き合ってくれる上に、
「今日は久しぶりに楽しめました」
と嬉しいことを言ってくれる次男の嫁。
このように素直な賢い女性に育ててくださったご両親と、
妻を上手に育てている次男に、感心しきり、感謝多々の第九のゆうべだった。

今年はフェスティバルホールの大フィルである。
指揮はアンドリス・ポーガという初めて聞くお名前。
ラトビア出身の若い方らしい。
期待できそうです。


ケン・シェは、19

ケン・シェ
ケン
それ



by Kinotomii | 2016-12-15 10:22 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

名言 沢木興道

「死んでから、人生を考えてみれば、どうでもよかったのである」
                       沢木興道

心の底から安心する。澤木老師のことばにはごまかしがない。ごまかしがないところが安心する。

沢木興道師(1880年6月16日~1965年12月21日)は、当時京都にあった安泰寺の五代目住職。内山興正老師は六代目に当たる。

「何にもならんもののためにただ坐る」という只管打坐を貫き、その一生を通じて実践して見せた。
http://tensekisha.com/sawaki_1.html

by Kinotomii | 2016-12-14 16:13 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

小倉玄照(おぐらげんしょう) 著『新普勧坐禅儀講和』から①

小倉玄照老師の『新普勧坐禅儀講話』。
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素人が読んでもよくわかる、丁寧でかつ専門的な本だ。

禅宗の祖は、達磨大師です。曹洞禅も臨済禅も、元は達磨大師に行きつく。

昔から大した疑問も持たず坐禅をやってきたが、ただ一つ不思議に思っていたのは、曹洞禅と臨済禅の坐る向きのことだった。
曹洞禅では、壁に向かって坐り、臨済禅では壁を背に坐る。
もっとも、臨済禅は、経験してみたいと思っているもののいまだ未体験。

このことを小倉老師(つい最近入寂されたらしい。大本山永平寺の講師を6年勤められたらしい)は明快に説明されている。
本の中から書き抜くことを許していただこう。
P49
<達磨大師は少林寺に入ってから面壁して坐禅に明け暮れたようです。その様子を人々は「バラモン壁観」と呼んだと『景徳伝灯録』は伝えています。
(略)
壁観と面壁の違いは、面壁は「壁に向かう」こと。一方壁観は、「壁が観る」こと。坐の形からこれを考えますと、、面壁は、坐禅する主体が壁に面(む)かっているのに対し、壁観は、坐禅の主体が壁そのものになっていると考えればよいでしょう。
 現今、曹洞宗の坐禅が壁に向かって後ろ向きに坐るのに対して、臨済宗系の坐禅は、壁を背にして前向きに坐ります。
これは、前者が「面壁」のかたちを踏襲しているのに対して、後者は「壁観」の坐法を伝えていると申して良いかもしれません
(納得)

 『普勧坐禅儀』は、もちろん面壁こそ正伝の坐法であるという立場です。それは、進歩発展を拒否し、古風を慕う坐の形と申せましょうか。あるいは、いつのまにか生知(生まれながらに知っている、人として自然のままのありかた)から程遠い存在になっている自己を恥じつつ、生知のありようを理想として求める坐法と申して良いかもしれません。>

臨済の人たちは、壁を背にして壁に成りきって坐っていらっしゃるということだったようだ。



by Kinotomii | 2016-12-13 23:39 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

友あり遠方より来る

「友あり遠方より来るまた楽しからずや」は、『論語』の言葉。次のような適切なサイトを見つけたので貼り付ける。
http://www.iec.co.jp/kojijyukugo/vo38.htm
詠み方訳し方が色々あるらしいが、この訳しかたが納得できる。

先日遠方より友あり。師を同じくする友が旦那様を伴って(旦那様に伴われて?)どっちでも良いが、酒も下げ、サツマイモも下げてきてくださった。
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柚子はジャムにした残り。サツマイモは隣近所に配った残り。
一人の友の来訪が、その友につながった他の友に更に友愛を広げていく。
何と素晴らしいことでしょう。
女二人は酒は飲めないが、互いの連れ合い同士は酒が第一の友、といったふうだから、酒さえあれば話が弾む幸せな方々。

もちろん、普段の主張通り、奈良の自慢、天平の宴もご紹介。
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この後さらに、13種類くらいの献立が続き、全部で20種類くらい出てくる。

このところ、遠方の方々とご縁が続き、しかも、心に持つものが同じか似ている人々である。
日本人とは限らず、また、年齢も関係がない。
ご縁は色々あるが、志を同じくする友とはなかなか出会えないものと承知している。このような胸にあるものが同じである場合、かなりのところまで本音で語っても許される。
叉、相手をほとんど知らなくても不安がない。
自然体の関係は、個人的には、目に見えず説明できないどこかに共通の深い「悲」(仏教用語で謂うところの)を持っている場合である。
そしてこの関係は、40年、50年経ても、昨日会ったように会せるのである。
故郷と似ているかもしれない。






by Kinotomii | 2016-12-04 23:22 | 雑記 | Trackback | Comments(0)