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安穏な生活と禅の集い

二泊三日の禅の集いから自宅に帰ると、わが毎日の生活の何と気楽なことよ、安穏なことよと思う。

坐禅は良いとしても、80名もの集団生活に和していくことは、
鈍くなった頭と体をフル回転させなければならない。
特に、本堂にずらっと布団を敷いての就寝は、時間が来たら「おやすみなさい」の一声で全員が一斉に眠りにつく。
他の参加者の方々のきびきびした動きに加え、すぐに寝息が聞こえてくることの何と羨ましいことか。
それでも、今年は2回目だから、何かにつけ、去年よりは余裕があった。

他に合わせる、ということが修行なのだろう。
自宅に帰ると、誰に遠慮気兼ねすることもなく好きなように生活を運んでいることを自覚する。
子育ても終わり、親の介護も終わり、好きなように時間を使えることの、幸せを実感する。
この恵まれた環境を、ともすると当たり前として感謝の念を抱くこともない毎日。
少しだけでもありがたいこと、と思えるのは、やはりより厳しい環境にさらされた時だ。

今年は、岐阜県美濃加茂市にある臨済宗正眼僧堂の師家、山川宗玄老師が講師であった。
テーマは、「十牛図」。
禅に長いご縁をお持ちの方々は、すでに一度はこのテーマで青山老師の提唱を受けておられるようだ。
初めてのこちらは、何が始まるのかと思ったが、「牛」とは、「本来の自分」であり⇒更に深めると「仏性」であり、「仏」を探す過程が10の段階に分けて述べられている。
⇒結局は、この10の過程とは修行の深まりを意味し、修行はこのように展開するもの、というところのようだ。

高校時代以来の漢文のリズムが心地よかったが、漢語の難解な事!
こうやって勉強ができるのも、家族や雲水さん方を始め、数知れぬ周囲の方々のおかげです。



by Kinotomii | 2019-07-24 22:53 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

調息のしおり 橋本恵光

人生は思いがけないことの連続だ。
子供時代、まさか自分が坐禅とご縁ができるとは考えたこともなかった。
60歳を越えて再び坐禅をしようとは、五年前は全く考えなかった。
そして、坐禅はしても、結跏趺坐は生涯無理、と明るく納得していた。

最近、朝の坐禅の時に試しにやってみたら、え? 案外楽に結跏趺坐もどきができた。
「もどき」という理由は、さすがに、あの澤木興道老師のなさるような、きれいな形は無理であり、結果として「もどき」にとどまっている。
しかし、安定しているから楽である。半跏趺坐よりしびれもない。
これならもしかして摂心も夢ではないのかも、と野心を燃やす。
そして、ここへ来てようやく、あの大禅者であられた橋本恵光老師(1890~1965)の『調息のしおり』なぞ読んでみようか、という気になった。

『調息のしおり』は、平成27年、瑞応寺専門僧堂の出版で、これで再再版となるようだ。
最初に書かれたのは、昭和38年2月。人里離れた道場であった福井県宝慶寺の住職をされていた時のこと。(註:若い頃、40年前、宝慶寺と言えば、泣く子も黙る…永平寺より厳しいという噂を耳にするものだった。当時は別世界で関心もなかったわけだが、今になって、そこで修業したというお坊様がフラリと現れたりして。面白い)
大積雪のあった1月、2月封雪記念(ご本人の弁)として著されたとある。
今回の『調息のしおり』は、橋本老師が生前御講述された『普勧坐禅儀』の中から、「調息」の部分を転載刊行された由。
瑞応寺の西堂として師家をされた御縁から、瑞応寺のお坊様の手によって読みやすく編集表記、装丁を整えて平成27年に瑞応寺から出版されたものである。
そしてこれのコピーをさるお坊様から戴いたのである。因みに、2015年に瑞応寺から出された「僧堂の行持」という素晴らしい本の最後にもこの「 調息のしおり」をそのまま載せてある。

では、最初の部分だけ書き抜くと、その最初から手厳しい。 

<参禅の有志から調息の難しさをしばしば聞かれ、どうすれば良いかと相談されます。しかし、調息の必要を自覚し、これと取り組み、其の難しさに気が付く人は参禅の一大進歩です。
 多くの参禅者が、わけわからずに猿真似式に坐禅したり、数息観を覚えて雑念征服の手段にしたり、只管打坐を誤解して無心の坐になろうと苦心したり、念慮が休息して空々寂々の死坐が当分続くと三昧を得た如き錯覚を起こして……>

まだまだ続くが、次回に回す。


by Kinotomii | 2019-03-28 17:21 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

禅と茶の湯①

初めてお茶に触れたのは、20歳の時。
花嫁修業の一環として、参禅していた三松禅寺の御住職にご紹介いただいた。

三松禅寺は、1679年、大和郡山城主・本多正勝公一族の士族寺として建立され、後世、松平・柳沢公など武家の菩提寺としての由緒を誇り、大和盆地唯一の行学一致の学問場として有能な人材を打出してきました。(三松禅寺パンフレットより)

三松禅寺は、大本山永平寺・総持寺認可の曹洞宗の参禅道場です。
一昔前は、奈良女子大の数学の教授であられた岡潔先生や、名物市長であられた故鍵田忠三郎氏なども集まり、さながら奈良の文化人のサロンのようであったらしい。鍵田氏は、奈良市職員として働いていた当時の上司です。氏の道場に豚汁をいただきに参上したこともある。

私が参禅していた50年くらい前の御住職は、皆川英真師。今考えると、厳しく正確に坐禅を御指導下さった。そして、この時入った禅の考え方は私の一生を左右した。19歳20歳の頃影響を受けた思想は、人間の考え方の根幹を成すと考えざるを得ない。だから、若い頃禅とご縁を戴いたことは本当にありがたいことだった。

ところで、お茶の先生は三松禅寺の専属のようなお方であったから、お弟子さん方にはそれ相当の方々がいらっしゃった。そして、厳しかった。三年間通っても初級止まりだった。やがて結婚と同時にお茶どころではなくなり、お茶は止めていた。四十代後半と五十代後半に再、再挑戦をしたが、いずれも膝の故障やら、先生の健康上の御都合やらで、ストップしていた。

最近、真ML茶の湯Communityというネット上の茶人の集まりに入れていただいた。素晴らしい組織である。流派の違いを超え、日本中の色々なお茶会の情報がサイト内に書き込まれる。お茶会の感想や、お道具、茶花、畳から何から、深い、深い、気が遠くなりそうに深い。

嬉しいのは、カレンダーにお茶会の日付が書き込まれ、会員であればどなたでも参加できる。会員でなくても、会員と一緒であれば参席しても良い、と規約にある。会員価格は基本的に一回千円。
本名ではなく、全員がハンドルネームを持っており、初めてお目にかかってもハンドルネームを名乗れば、途端にお互い、ニッコリとなる。ハンドルネーム一つで、その人のお茶歴、メールアドレスなど誰にでもわかるようになっている。

お茶の世界は、ややこしいきまりやあうんの呼吸のようなことがあるから、全くの初心者では場の空気を乱すこともあり、それに本人は気づかないといったことが起こる。ところが、お茶人は懐が大きいから、どのような珍事もうまく処理される。これを実感できるのも、お茶の世界に惹かれる理由の一つ。

久しぶりにお茶会を再開されたお茶人のお茶会に参席したのは、2~3日前の寒い日和のことでした。




by Kinotomii | 2019-02-23 16:37 | 雑記 | Trackback | Comments(0)

坐禅の神秘 森山大行 2010年

森山大行 老師 2010年(瑞岳院創建者)

「坐禅の深さに関する尺度はいろいろあるが、私自身が個人的に感じた時間に関する観点から考えると、坐禅の深さには5つのレベルがある。

      1、坐禅をしていても妄想ばかり
      2、坐禅をしている時間が短く感じられるレベル
      3、坐禅をしている時間が深く長く感じられるレベル

      4、時間の経過を感じなくなるレベル

      5、時間を自在に作り出すことができるレベル」

また、参禅者から「坐禅の深いレベルに達するためには、どのような修行が必要なのでしょうか?また、どれぐらいの期間、修行すればよいのでしょうか?」との質問に対して

  • 「個人の資質によります。すぐに深いレベルを達成できる人もいれば、深いレベルになかなか到達できない人もいます。でも心配はありません。私も修行して深いレベルに達成できたのですから、皆さんも必ずできるはずです。」

とはいっても、参禅者としては、自分の坐禅が現在どのレベルであっても気に病む必要は全くありません。曹洞宗では坐禅を強調するため、坐禅の出来不出来や覚りを得られるかが気になるかもしれませんが、そのような目標に至ることが本質ではないのです。

普勧坐禅儀で道元禅師は

<いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。>


と述べています。道元禅師の勧める坐禅は、仏法修行の一部分として行う坐禅ではありません。その坐禅の中に仏法のすべてがあるのです

(ある禅者のブログより転載。坐禅をしている方の中には、宗教には一切関わりたくない、と言われる方もあるが、坐禅そのものがすでにわが身をそこに投げ入れていることで、不思議と何らかの啓示が得られる。)ブログ主




by Kinotomii | 2018-12-04 07:34 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

心がきれいでないといい息はできません   楢崎一光

*静かに坐っていい息をしよう。
*今日一日 いい汗を流そう。
*今 ここをいい出会いにしよう。  楢崎一光


 平成2年、菊池市での文化講演会より 楢崎一光

新居浜でね、市民参加で、市民の人がみんな老いも若きもですよ、
ね、みんなが参加できるという坐禅。

私は寝たきりになったから参加できない、そんなことはないですよ。
息のしてる間は参加できるんですよ。
だからね、私は、いい息をするということは、坐禅だと言うとるですよ。
ね? それならだれでもええでしょう。
私は宗派が違いますけ、息しません、ちゅう人はないんだから。
ね? だれでもできる。息してるんだから。

それにね、息をするには、いい息をしなけりゃいけない。
ね、いい息をしなけれゃいけない。
今合掌がありましたから、
そういうことは皆さんよくご存じだとおもうんですけども、
そのためには、姿勢がね、正しくないといい息もできません。
心がきれいでないと、いい息はできません。

で、息という字は、自分の心と書くでしょう? ね?
だから、息は、いい息をしなけりゃいけない。
そのためには、この坐禅ということがね、非常に素晴らしいんだということを、今は、禅の科学研究で、科学者の先生たちがね、生理学だとか、精神医学だとか、心理学とか、そういう先生方が、坐禅は実に素晴らしいということをね、今、色々研究していらっしゃる。
そういうことを聴きますと、非常に、この息をするということ、調息ということがね、素晴らしい。坐禅は素晴らしい、ということでね、

新居浜では、市民参加で、だれでも坐禅ができるように、私はこの時とばかり、大いに意を強うして吹聴しておるわけでございます。

そういうことで、今、世界中の方々が、坐禅に取り組んでおられると、こういうことでございます。


by Kinotomii | 2018-09-21 21:15 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

暁天坐禅

前夜から禅友のお宅に泊まらせていただき、3時半起床。4時10分にお宅を出て興聖寺に4時20分拝登。4時半からの暁天坐禅に参禅。

まだ薄暗い琴坂を登りきると、本堂の御本尊が、山門の向こうの法堂の灯りの中に照らされて、荘厳に輝いて在します。
自然と合掌。
暁の空に目をやると、満天の星。

坐禅堂の中は薄暗く、坐るのにちょうど良い環境。
今朝の坐禅参加者は4名。
雲水さん方と坐る。ただ坐る、の心境にわずかに近づいた心持ち。
やはり坐る環境は坐禅には必要と思える。
薄暗い坐禅堂の中で、次第に明るくなってくる空を感じながら、道元禅師のゆかりのお寺で静かに坐れることに随喜。
暁の興聖寺の写真がないので、緑のころの写真。
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突き当りが山門で、まっすぐ法堂の正面に通じています。

長い朝課を、方丈様、雲水さん方と済ませた後、御粥と種々の漬物の小食。
若いころ、よくこうやってお寺に泊まり込んで坐禅、朝課、作務を勤めたことをおぼろげに思い出し…。
坐禅の後のおかゆは大変おいしい。

若いころ禅に御縁を貰ったことは、自分の人生の考え方、生き方の大半を決めた。
もし、そうでなかったら、今頃は迷いに捉われて後悔の多い人生になっていたのではないかと恐ろしい。
ひとえに、ご先祖様のおかげ。ご先祖が、この種まきをして下さったことは疑いない。





by Kinotomii | 2018-08-26 16:55 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

御袈裟(絡子:らくす)を縫う

「絡子」とは、五条衣のお袈裟を縮小して、「竿」をつけて肩からかけられるようにしたものです。
左右に2本ずつあるのが、「竿」です。
大切なのは、四角いマットの部分です。これは田んぼを表し、「田相」と言います。
5列の田んぼが一枚の袈裟の中にあるから五条衣です。

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これは、在家のお二人の先生方に助けていただいて(助針という)初めて縫った「絡子」です。
4人の手が入っていて縫い目がおぼつかないが、優しい先生は、
「きれいに縫うことより、正確に縫うことが大切です」
とおっしゃった。
長崎県の諫早市にあるお寺さんまで行って、ほぼ2日で完成させたものです。難しいところは、先生方が手伝って下さり……。合掌

ここのお寺には、「絡子を縫う会」があります。
月2回、第二、四金曜日に、皆さんが三々五々に集まって、自主的に自分の仕事をされる。
目指す部分が終わると、三々五々帰って行かれる。
大変自主的な集まり。この間にお茶の時間があり、この時だけ和やかです。

これだけでなく、毎朝坐禅会があります!
18年続いているそうです。5時15分から毎朝欠かさずです!
くったくない和尚さんだから、坐禅会も和気あいあいなのかなと想像していたけど、60代、70代の方々中心の坐禅は、意外にも、きりっと緊張している雰囲気です。
和尚さんは厳しいそうです。
それでも、皆さん、能動的に、積極的に、毎朝10名くらいは参禅に来られる。
僧堂を別にすれば、日本国中でこんなお寺は珍しいと思います。
素晴らしい! と言ったら、「当たり前のことなんです」と、同年代くらいの女性が仰った!  淡々と自然体で坐禅するということ。
能動的に自主的に、仏法を行持ていらっしゃる空気を、諫早まで行って味わえて良かった。

ところで、絡子は、しかるべき師の方に授衣作法をしてもらうまで、仏弟子のしるしとして用いることはできません。(点浄:てんじょうと言う)
この裏に、持ち主にふさわしい言葉を書いていただきます。
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次は型紙を作るところから、一人で縫わねばなりません。








by Kinotomii | 2018-05-31 21:15 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

興聖寺 道場

宇治の興聖寺の玄関土間に掛かっているホウ(木へんに邦と書く。)です。又は魚鼓とも言うらしい。
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一体何百年経っているのだろう。
お腹のあたりが破れているということは、これだけ激しく雲水さんたちの訪問を受け、力任せに叩かれたということ。名誉の負傷とでも。

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きっと良い時代があったのでしょう。

坐禅堂の聖僧(しょうそう)は、やっぱり、文殊菩薩様。
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何だか夢を見ているようだけど、数か月前までは、怖い禅僧がお座りになっていたように記憶するが…。
代わられたのだろうか、老化のための記憶違いだろうか。➡️賓頭盧尊者(びんずる尊者)だった可能性あり。

道元禅師様は、新暦1月26日がお誕生日だそうです。子供のころの名を
「文殊丸」と言われたそうです。
通元老師の『禅のたより』で勉強しました。
 道場に文殊菩薩様を据えるのは、智慧を与え悟りに導いて下さる仏様だから、ということです。 ⇒ 今日佛教の勉強に行ったら、坐禅堂の聖僧は、臨済宗でも文殊菩薩様だそうです。又は賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)のところもたまにあるとか。物を知らないということは、罪作りです。


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獅子の背に座り、美しい文殊菩薩様です。この文殊様、蓮華一本を両手で捧げていらっしゃるが、右手に剣、左手に蓮華という文殊様が多いのだろうか。髪を団子にして、その団子の数で増益、敬愛、怨敵調伏、息災などを表すそうだが(澤木瞳子著 『満つる月のごとし』)興聖寺の文殊様は、地蔵菩薩のようです。獅子も愛らしい。




by Kinotomii | 2018-02-06 19:36 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

龍門寺 in Iowa ②

坐禅堂の内部。正面に見える仏さまも、故Shoshinさんの作です。
Shoshin さんは、ワインコフ師の二番目のお弟子さんでした。
坐禅堂の作りは、専門僧堂の場合決まっているのかどうか。宇治の興聖寺も、ネットで見ると菊池市の聖護寺も同じ作りです。
龍門寺の仏像、建物はすべてアメリカ人の大工さんたちの手になるとか。。ここは、恐らく、ワインコフ老師が修業された新居浜市の瑞応寺と熊本県菊池市の聖護寺(しょうごじ)のそのままに、アメリカ人の大工さんたちによって作られたものでしょう。
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ここは、禅堂の外堂(がいどう)部分。内単には、右側の正面入り口から入ります。画面左手の明るい部分は、外庭から直接禅堂に入れるようになっている入り口です。誰でも、いつでも坐禅したいときに坐禅できる環境です。

正面に小さく見えるのは、「ほう」(木へんに邦と書く)という木製の魚の形をした一種の「訪問の掛け声」の役割のもの。いずこも禅寺にはこれがありますが、興聖寺の巨大な「ほう」はすごい! お腹のあたりが打ち破られています。これは興聖寺のホウです。
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いかに長年、数えきれないほどの雲水さんたちがこれを叩いてきたかを物語る。

龍門寺のほうは、表情も親しみ深い。Shoshinさん作。
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これは坐禅堂の御本尊。アメリカで仏像にアメリカの木材を使うのは、乾燥に耐えるためもあるようです。Shoshinさんは、龍門寺の仏像だけでなく、沢山の椅子やベッドも作り、急ぐように亡くなられたようです。
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Shoshinさんは、龍門寺の仏像を作るよう天地宇宙から指名された仏師だったのでしょう。





by Kinotomii | 2017-11-29 15:39 | 宗教 | Trackback | Comments(0)

『澤木興道 生きる力としての禅』櫛谷宗則

*安心(あんじん)とは、足ることを知るその日暮らしである。足ることを知るということは、前後を際断してそれに成りきるということである。未来や過去の事を言っているんじゃあない。現在を見つめるのです。現在の心持を尊ぶのである。そこに不変の大生命がある。
    <それに成りきる、ということが普通の人間には難しい。自分をそこに投げ込むことだから。周囲を一切忘れるということだから。凡人はいつも周囲が気になる。それを際断して自分が自分になるために、坐禅があるのだろう。>

*坐禅はいつも新米でおってください。どうして坐堂に入るかとおずおずしている、そんなときやや近いのです。初めて坐った時を忘れず、素人であって下さいよ。
     <「禅マインド ビギナーズ・マインド」で、鈴木俊隆老師が唱えたフレーズと同じです。一生素人であること、これが生きるコツでしょうか。>

興道老師は(すでに遷化されている)、一見して、堂々としたとてもりっぱなお坊様、という風に見えない。一生雲水、といったいでたち。ティック・ナット・ハンも、小柄だし、華々しくはない。翻訳していらっしゃる藤田一照師もこうおっしゃっている。マザーテレサもそうだったな。ただ、神の御心のままに、自分は神の手であるにすぎない、とおっしゃっていた。

「ホンモノ」と言われる人たちは、一見して、いかにもそうですよ、という風に見えないのが特徴だ。必要以上に見せようと飾らないから、自分切りでいられるから、飾る必要がないから、どこかの普通のおじさん、普通のおばさんにしか見えない。

ちょうど一年前のプライムニュースに出ていらした、
樋野興夫: 病理学者⇒「がん哲学外来」を主宰する。
石飛幸三医師。外科医。⇒人間らしい死に方を世間に訴えておられる。
このお二方が、全くの自然体で、テレビに似つかわしくなかったこと!!

ホンモノを見つけようと思ったら、注意が肝要だ。自分が人生をごまかしていたら、虚飾に目が行きホンモノとは絶対に出会えない。ホンモノは、ホンモノにしか見つけられないということ。
本当に生きないと、人生、何のために生まれてきたのやら。




by Kinotomii | 2017-07-18 23:24 | 宗教 | Trackback | Comments(0)